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100 論破するようなことを言わないで

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 藤城皐月(ふじしろさつき)の知っている栗林真理(くりばやしまり)はわがままで甘えん坊ですぐに泣く女の子だった。だが、最近の真理にはもう昔の面影はない。
「今の席になってから学校で明るくなったよな、真理って」
「そんな言い方されると、まるで今までが暗かったみたいじゃない」
「だってお前さ、勉強ばっかしてて、クラスの子と全然馴染んでなかったじゃん。陰キャ丸出しだったぞ」
「陰キャって言うな!」
 真理の左フックが飛んできた。ソファーの向いに座っているので届くわけがないが、身体を傾け、右腕でガードする振りをした。次に右ストレートを打ってきたので、殴られる真似をして吹っ飛んだ。
「今の席は絵梨花ちゃんがいてくれるからかな。やっぱり受験仲間が近くにいると落ち着く」
 皐月の隣の席の二橋絵梨花(にはしえりか)も中学受験をする。稲荷小学校で中学受験をするのは真理と絵梨花しかいない。
「二橋さんって真理と同じ学校を目指してるの?」
「ううん、絵梨花ちゃんは私みたいに高望みしないで、比較的入りやすいお嬢様学校しか受けないんだって。バイオリンも習っているから、受験に全力を注いでいるわけじゃないの。まあそれでも私より勉強頑張ってると思うけど……。もし絵梨花ちゃんが本気で受験勉強したら、絶対にもっと上を目指せるよ」
 真理はコーヒーを飲みほし、サーバーに残ったコーヒーをカップに注いだ。
「真理もそのお嬢様学校、受けるのか?」
「受けるよ。第一志望がダメでも、どこかの女子校に行きたいから。受けられる女子校はできるだけたくさん受けようと思ってる。全部落ちたら私、死ぬかも」
 六年になってから弱音を吐くことが多くなったが、真理からここまで重い言葉を聞いたのは初めてだった。
「死ぬとかそんなこと言うなよ。落ちたら、俺と一緒に地元の中学に行けばいいじゃないか」
 カップに口をつけようとした真理の手が止まった。真理は席を立ち、サイケデリックトランスの音楽を止めて、また皐月の隣に座った。

「俺と一緒に地元の中学に行けばいいって言うけど、皐月は中学受験しないの?」
「ああ。やっぱり、しない」
 皐月は思わず「しない」と言ってしまった。こんな形で自分の決めかねていた気持ちを言ってしまうことになるとは思っていなかったので、自分の軽はずみな言葉に気持ちがざわついた。
 本当はもう少し勉強をやってみて、それからしっかりと進路を考えるつもりでいた。それなのにまだイメージがはっきりしなかった自分の未来を、真理の(つぶや)きによって表に引き出されてしまった。
「なんで? 皐月はてっきり受験する気になっていたのかと思ったのに……」
「そう考えていた時もあったよ。でも真理に借りた参考書で勉強してたら、ちょっと今の俺には難し過ぎて……。だからもっと簡単そうな本で勉強を始めてみたんだけど、やっぱり量が多くて。残された時間を考えると、もう間に合わないかなって……」
 これは自分の気持ちのほんの一部だ。本当はもっと複雑な感情が絡み合っていて、まだ心の中で整理できていない。ぼんやりとした状況判断のまま、うっかり剥き出しの思いが言葉になって溢れ出てしまった。

「あのね、別にテストで満点取らなくたっていいんだよ? 合格最低点だけクリアすればいいの。それに偏差値が低い学校だったら、今からでも頑張って勉強すれば間に合うから。絶対に地元の公立よりもいいって」
「うん、わかってる。でも、やっぱり俺には無理っぽい。……悔しいけど。だから真理が受験勉強を頑張ってること、凄ぇなって心から尊敬してる」
「もうっ、なんで簡単に諦めるかなっ!」
 ソファーから身を乗り出すように腰を浮かせた真理は、自分の身体を乱暴に背もたれへ投げ出した。
「尊敬なんてしてくれなくていいから、皐月も受験勉強頑張ろうよ」
「……悪いけど、俺には真理みたいに勉強頑張れないよ」
「頑張れるよっ! あと4カ月ちょっとじゃん。一緒に頑張ろうよ」
 真理が泣きそうな顔をしていた。
「だって、どうせ勉強頑張っても真理と同じ中学に行けないんだろ? お前って女子校行くんだし……」
「同じ中学に行けなくても、一緒に名古屋に通えるでしょ」
「友達が一人もいない学校なんてつまんないじゃん。それにやっぱ俺、(さとし)秀真(しゅうま)比呂志(ひろし)と同じ学校に行きたいよ。例えクソみたいな学校でも、友達と同じところがいい」
「友達なら、新しい中学でまたできるよ」
「そういう問題じゃない。あいつらは特別なんだよ」
「特別な友達なら、別々の中学に行っても今まで通りずっと友達だよ」
「だったら真理と違う学校に行っても、俺たちは今まで通りずっと特別な友達だよな?」
「そんな論破するようなことを言わないでよ……」
「ごめん……」
 不機嫌そうに立ち上がった真理はリビングを出ていった。皐月の思っていた以上に真理は皐月に中学受験をさせたがっていたようだ。



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 |藤城皐月《ふじしろさつき》の知っている|栗林真理《くりばやしまり》はわがままで甘えん坊ですぐに泣く女の子だった。だが、最近の真理にはもう昔の面影はない。
「今の席になってから学校で明るくなったよな、真理って」
「そんな言い方されると、まるで今までが暗かったみたいじゃない」
「だってお前さ、勉強ばっかしてて、クラスの子と全然馴染んでなかったじゃん。陰キャ丸出しだったぞ」
「陰キャって言うな!」
 真理の左フックが飛んできた。ソファーの向いに座っているので届くわけがないが、身体を傾け、右腕でガードする振りをした。次に右ストレートを打ってきたので、殴られる真似をして吹っ飛んだ。
「今の席は絵梨花ちゃんがいてくれるからかな。やっぱり受験仲間が近くにいると落ち着く」
 皐月の隣の席の|二橋絵梨花《にはしえりか》も中学受験をする。稲荷小学校で中学受験をするのは真理と絵梨花しかいない。
「二橋さんって真理と同じ学校を目指してるの?」
「ううん、絵梨花ちゃんは私みたいに高望みしないで、比較的入りやすいお嬢様学校しか受けないんだって。バイオリンも習っているから、受験に全力を注いでいるわけじゃないの。まあそれでも私より勉強頑張ってると思うけど……。もし絵梨花ちゃんが本気で受験勉強したら、絶対にもっと上を目指せるよ」
 真理はコーヒーを飲みほし、サーバーに残ったコーヒーをカップに注いだ。
「真理もそのお嬢様学校、受けるのか?」
「受けるよ。第一志望がダメでも、どこかの女子校に行きたいから。受けられる女子校はできるだけたくさん受けようと思ってる。全部落ちたら私、死ぬかも」
 六年になってから弱音を吐くことが多くなったが、真理からここまで重い言葉を聞いたのは初めてだった。
「死ぬとかそんなこと言うなよ。落ちたら、俺と一緒に地元の中学に行けばいいじゃないか」
 カップに口をつけようとした真理の手が止まった。真理は席を立ち、サイケデリックトランスの音楽を止めて、また皐月の隣に座った。
「俺と一緒に地元の中学に行けばいいって言うけど、皐月は中学受験しないの?」
「ああ。やっぱり、しない」
 皐月は思わず「しない」と言ってしまった。こんな形で自分の決めかねていた気持ちを言ってしまうことになるとは思っていなかったので、自分の軽はずみな言葉に気持ちがざわついた。
 本当はもう少し勉強をやってみて、それからしっかりと進路を考えるつもりでいた。それなのにまだイメージがはっきりしなかった自分の未来を、真理の|呟《つぶや》きによって表に引き出されてしまった。
「なんで? 皐月はてっきり受験する気になっていたのかと思ったのに……」
「そう考えていた時もあったよ。でも真理に借りた参考書で勉強してたら、ちょっと今の俺には難し過ぎて……。だからもっと簡単そうな本で勉強を始めてみたんだけど、やっぱり量が多くて。残された時間を考えると、もう間に合わないかなって……」
 これは自分の気持ちのほんの一部だ。本当はもっと複雑な感情が絡み合っていて、まだ心の中で整理できていない。ぼんやりとした状況判断のまま、うっかり剥き出しの思いが言葉になって溢れ出てしまった。
「あのね、別にテストで満点取らなくたっていいんだよ? 合格最低点だけクリアすればいいの。それに偏差値が低い学校だったら、今からでも頑張って勉強すれば間に合うから。絶対に地元の公立よりもいいって」
「うん、わかってる。でも、やっぱり俺には無理っぽい。……悔しいけど。だから真理が受験勉強を頑張ってること、凄ぇなって心から尊敬してる」
「もうっ、なんで簡単に諦めるかなっ!」
 ソファーから身を乗り出すように腰を浮かせた真理は、自分の身体を乱暴に背もたれへ投げ出した。
「尊敬なんてしてくれなくていいから、皐月も受験勉強頑張ろうよ」
「……悪いけど、俺には真理みたいに勉強頑張れないよ」
「頑張れるよっ! あと4カ月ちょっとじゃん。一緒に頑張ろうよ」
 真理が泣きそうな顔をしていた。
「だって、どうせ勉強頑張っても真理と同じ中学に行けないんだろ? お前って女子校行くんだし……」
「同じ中学に行けなくても、一緒に名古屋に通えるでしょ」
「友達が一人もいない学校なんてつまんないじゃん。それにやっぱ俺、|聡《さとし》や|秀真《しゅうま》や|比呂志《ひろし》と同じ学校に行きたいよ。例えクソみたいな学校でも、友達と同じところがいい」
「友達なら、新しい中学でまたできるよ」
「そういう問題じゃない。あいつらは特別なんだよ」
「特別な友達なら、別々の中学に行っても今まで通りずっと友達だよ」
「だったら真理と違う学校に行っても、俺たちは今まで通りずっと特別な友達だよな?」
「そんな論破するようなことを言わないでよ……」
「ごめん……」
 不機嫌そうに立ち上がった真理はリビングを出ていった。皐月の思っていた以上に真理は皐月に中学受験をさせたがっていたようだ。