「今夜は、昨日の続きから読みましょうね」
ベッドに腰を掛け、膝の上に絵本を広げながら、優斗の愛らしい表情を独り占めする。
「どうなったのかなぁ。狼さんと遊ぶところで眠っちゃったんだ」
「そうね。キツネさんは狼さんが怖いのに、どうして遊ぼうと思ったのかしらね」
読み聞かせは、私の唯一の楽しみ。優斗と一緒に、物語の世界へすぐに飛び込めるからだ。
小学一年生になった優斗は、物語の意味を少しづつ理解できるようになってきた。今までは、絵の比率が多い本ばかりだったが、最近は言葉を聞き想像する。自由な世界を作り上げることに喜びを感じてほしい。
主人公のキツネになりきって読み進めていると、乱暴にドアが開かれた。
「うるさいんだよ。毎晩。集中して見られないんだ」
旦那の義人が低い声を震わせている。
「あ、ごめんなさい。なるべく小さな声で読んでいたつもりだったんだけど……」
「言い訳はいらない。小さい声であろうが、うるさいものはうるさいんだ。毎晩そんなことして一体何のためになるんだ。読みきかせより、計算させていた方がよっぽど利口になる」
「そんな事ないわ。想像力を養うことはとても大事な事よ。それに、読解力がなければ、どんな問題も解くことは出来ないの」
義人は視線を下げ、めんどくさそうな表情をしている。
「だからね、問題の意味を理解してなければ、解く事など出来ないわ。こんな当たり前の事、分かるわよね。だから、幼い頃から活字に触れさせなくちゃダメなの」
つい力が入ってしまった。
「優斗と二人で、俺のことを馬鹿にしてるだろ。本を読む奴はそんなに偉いのか?毎日、家事と子育てだけしか出来ない能無しのくせに」
「ほらね。想像力がないから、家事と子育ての大変さが分からないのよ」
言い返せなくなったのだろう。力いっぱいにドアを閉めた。
世間は、日韓ワールドカップ開催で賑わっている。日本代表は『トルシエジャパン』と呼ばれているらしい。義人は趣味の釣りにも行かなくなり、サムライブルーの一員だと言い出しそうな位、ブラウン管テレビにかぶりついている。サッカーに興味などなかったくせに、応援している声が蝉の鳴き声のように暑苦しい。
「優斗ごめんね。お話が途中になってしまって。パパはね、本を読まないから、いつもママには敵わないのよ。きっと言葉をたくさん知らないのね」
「お父さん怒っちゃたし、もう絵本は読めないね……。あ!でも明日は、学校で読み聞かせの日でしょ?」
「お当番の日だから、狐さんの絵本を最初から読みましょうか」
「そうしちゃおう!明日もきっと、お友達がたくさん来るだろうなぁ。ママがお当番の日は、大人気なんだよ」
「そうなの?嬉しいわ。明日を楽しみに寝ましょうね」
「星のキーホルダーにシールを貼るの忘れないでね」
「忘れないわよ。約束ね。おやすみなさい。大好きよ。優斗」
……これが優斗との最後の会話になった。約束を果たす事もできなくなってしまった。
リビングに戻ると携帯の折りたたみを慌てて閉じ、滑らせるように机の下に隠していた。
「寝たのか」
「誰が」
「優斗に決まってるだろ」
「主語がないから分からない。もしかしたら、私が寝てしまったのかって聞かれたのかもって思うでしょ」
「普通に考えたら、優斗のこと以外ないだろ」
「普通って何よ。それはあなたの視点でしかないわよね。質問する時は、何を聞いているのか明確に伝えて」
義人がグラスを勢いよく置いた。
「いい加減にしろ!何でいつもお前はそうなんだよ。一言『寝た』でいいじゃないか。それをいちいち主語がないだの、語彙力がない、何を言いたいのかわからない……。否定ばかりして会話にならないんだよ!」
「本当のことよ。あなたみたいに言葉を知らない人と話していると疲れるのよ。私まで頭が悪くなりそうだわ。だから、あなたと話したくないのよ!それから、さっき急いで携帯を隠していたけどバレバレよ。また女にメールでも送ってたんでしょ。会話と同じようにきっとつまらない内容でしょうね」
義人の震える拳が目の前に現れた次の瞬間、電流が流れるような衝撃と共に暗闇に落ちていった。
顔が焼けるような痛みで目が覚めた。おかしい……。口の中は鉄の味が充満している。ボヤけた視界に少しずつ光が差してきた。床に何か落ちている。
「たおこ?たお……」
『ら』が言いたいのに言えない……。
「お……」
違う……。何度試しても『ら』が『お』になってしまうこの違和感は何だろう……。
「あ・い・う・え・お」
違う。『ら・り・る・れ・ろ』と言ったのに……。
『ら行』は、舌べらが歯に当たる事で発音できる。今はそれができない。それとあの、『たらこ』のような物体は……。
耳障りな金属音と共に、義人が現れた。
「申し訳ないと思っている。でも、お前の言葉を聞いていると自分の事をどんどん嫌いになっていく。だから、許してくれ。お前には敵わないんだ……」
そう言って糸と釣り針を持ち、目に涙をためていた。
『やっぱり、言葉ではなく暴力でしか勝てないのね……』
義人を哀れに思い、再び顔面に焼けるような痛みと共に暗闇に落ちていった。
舌を切られても、人間はそう簡単に死なないらしいく、またこの世界で目が覚めた。見慣れた花柄のカーテンから差し込む朝日が眩しい。
相変わらず焼けるような痛みは治らないが、息苦しさと糸で引っ張られるような違和感がプラスされた。
……想像は現実であった。口はしっかりと縫われている。事実を認識した途端、痛みが倍増した。
『優斗のところに行かなくちゃ』
生まれたての馬のような歩き方で優斗の部屋に辿り着いた。
「ううお!」(優斗!)
もう、我が子の名前を正しい言葉で呼ぶことは出来ない。ベッドの上で優斗は白目を剥き、口から泡を吹いていた。
言葉では表せないほど深い悲しみが襲った……。皮肉なことに私はこれから一生、言葉を発することは不可能だが。
『あいつは大切なものを全て奪った』
……仮に想像力がなかったとしても、私の人生の結末は分かる。
感染症で発熱し、縫われた口で栄養分を摂取することは不可能であり、死を迎える。次に暗闇から眼が覚める時には、見慣れた花柄のカーテンがある世界ではないだろう……。
『優斗、星のキーホルダーを持っていくからね……』