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第6話 犬山蓮

ー/ー



「おっはよー!!」

 夏休み明け、久しぶりの登校でまだぎこちない空気の流れる教室を一変させたのは、こんがりと黒く焼けた肌の男子生徒の健康的な挨拶だった。

 クラスにいた全員の視線がその男子生徒に向くやいなや一斉に挨拶が返ってきた。側にいた何人かは頭や肩を軽く叩き、さっそく雑談を始めている。

 二言三言言葉を交わすうちに自然と笑い声が起こり、それが伝播するように教室のあちこちから大小の談笑の輪が広がっていった。

 クラスはいつの間にか夏休みが始まる一月前の賑やかな状態に戻っていた。

 入ってくるなりクラスの空気を変えた男子生徒――犬山(いぬやま)(れん)は、肩に掛けたスクールバッグを右手に提げると窓際の後ろから2番目の自分の席に進んだ。

「よっす、紙都!」

 後ろの席に座っていた紙都は手を挙げてそれに答えると、すでに話し込んでいた何人かのクラスメートの会話を終わらせ、蓮の方へ顔を向ける。

「おはよー久しぶり」

「おう、久しぶり! ……って、眼鏡!?」

 蓮はバッグを投げつけるように机の上に置くと、驚いて声を大きくした。その表情を見てぼそっと紙都は呟いた。

「……いつも通りだ」

「あ? 何が?」

「いやーなんでもない」

 紙都は誤魔化すように笑った。

「なんだ? まだ、寝ぼけてんのか?」

「ちげーよ」

 教室はいつもと何も変わらなかった。ただ違うのは、紙都が誤魔化し笑いを続けているその一点だけだ。

「で、なんで眼鏡なんだよ」

「なんでって……実は俺ずっとコンタクトだったんだけど、コンタクトが壊れて。だから今コレ掛けてんだよ」

 用意した台詞をスラスラと並べて、最後に眼鏡を上げた。

「たしかに! 前の方が目が大きく見えたしな」

 じっくりと紙都の顔を眺めた後に、蓮はそう言った。

「それで、どうだった? 夏休みは」

「どうって、特に何もないけど、普通に過ごしてた」

 あの事件を除いては。あの事件以来、生まれたときからずっと育ち、見慣れたどころか見飽きたはずの場所も初めて訪れたかのように錯覚してしまうときがある。

 今このとき、この瞬間もそうだった。

「フツーの毎日か」

 蓮の顔が急ににやけ顔に変わる。爽やかな表情とは打って変わってハイエナを連想させるようないやらしい顔だ。

「あんな美人の御言さんと毎日一緒にいられて、いいなーお前は」

 バシッと鈍い音がした。紙都は半ば本気で蓮の頬を殴った。

「またあの『エロ犬』紙都に殴られてるよ」

「バカだよなぁ。でも、なんかもうあれ挨拶になってんじゃねぇ?」

 微かな手の痛みとともに顔全体に火照ったような熱さを感じた。

「いや~なんか注目を浴びてるぜ」

 頬をさすりながらも嬉しそうに蓮ははにかんだ。

「お前のせいだろ!」

「いや、俺のせいじゃねえよ。これは美しすぎるお前の母親、御言さんのせいだ。御言さんへの熱い思いが親友に殴られても消えないくらいの――」

「わかった! もうそれ以上母さんのことはしゃべんな」

 蓮は大げさにため息を吐くと、肩をすくませて見せた。これでも様になってしまうのだから困ってしまう。

「じゃあ別の女の子の話をしよう」

「いらない」

 紙都は頬杖をついて窓の外に目を向けた。窓のすぐ下は中庭だった。真ん中にある青々と葉を茂らせた大きく太い桜の木を囲むように、はげかけた茶色のベンチが並ぶ。

 校内からでないと入ることのできないその空間には、そろそろ始業のチャイムが鳴るというのにチラホラとカップルのような男女の姿が見えた。

「なんだ、誰か気になるやつでもいんのか?」

 蓮が窓に張り付くように下を覗き込む。

「いないよ」

「なーんか、テンション低いな、お前」

 不意に投げかけられたその一言にはっとして紙都が顔を上げると、蓮の真っ直ぐな瞳とぶつかる。肌の色に似合う茶色がかった黒い瞳に隠し事を見透かされそうで、紙都はすぐに眼鏡を上げて目をそらした。

「なんかあったんじゃねえの?」

「何もねーよ!」

 無理矢理声を張り上げて、笑ってみせる。

「ふーん……なあ、紙都」

「な、なんだよ」

 冷や汗が流れていた。心臓の音がうるさいくらい鳴っていた。

 ──バレるはずがない。例の事件の痕跡は全て消したのだから。それでも脳裏には早朝の御言の声が離れて消えなかった。

 蓮の口が言葉を紡ぐために大きく開いた。

「やっぱ、御言さんきれいだよなあ。今日久々に挨拶したけど、あの凛とした声に立ち居振る舞い。あれはまさに――」

 その後の台詞は声に乗せることができなかった。紙都のやや本気のパンチが再び鼻の下が伸びきったエロ犬の頬にヒットしたからだ。

「……あっ、ごめん」

 条件反射的に、しかも明らかに蓮が悪かったとしても、冗談ですまされない強さで殴ってしまった。妖怪を殺したときに似た後味の悪さだけが握ったままの紙都の右手に残る。

 ところが、蓮は笑った。まじまじとその顔を見ても、作り笑いには見えない快活な笑い顔があった。

「そうそう。それでいいんじゃね?」

「はぁ?」

「何を悩んでるかしらねぇけど、俺が何かやらかすとお前がつっこむ。お前はそれでいいんじゃね?」

 素っ気なくて馬鹿っぽい言い方だった。ただ、それは突き刺すような夏の太陽の日差しではなく穏やかな日だまりのよう。

「……ありがとう」

 紙都は照れくさいのか横目で窓を見ながら小声で答えた。

「だー!! 男に照れられてもぜんっぜん来ないわ!! もう、やめようぜ! はい終了!」

 パンッと手を合わせて、蓮は椅子に戻った。そしてまたにけ顔になる。

「それでさあ。その女の子なんだけど。今日登校中に話しかけられたのよ。誰か探しているみたいだったなぁ」

「誰か探している?」

「そう、何だったっけ? ぬかなんとかって」

 紙都は気づかないうちに身を乗り出して聞いていた。

「いや~可愛い子だったぜ! うちの制服着てたんだけど、髪がなんつーの? なんかオシャレな感じで――」

 そのとき、ガラガラと威勢良く教室の扉が開いた。同時に女子生徒の雷のような怒鳴り声が賑やかな教室を突き抜けた。

「ヌカヅキ出てきなさい!!」


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次のエピソードへ進む 第7話 怒号と再会


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「おっはよー!!」
 夏休み明け、久しぶりの登校でまだぎこちない空気の流れる教室を一変させたのは、こんがりと黒く焼けた肌の男子生徒の健康的な挨拶だった。
 クラスにいた全員の視線がその男子生徒に向くやいなや一斉に挨拶が返ってきた。側にいた何人かは頭や肩を軽く叩き、さっそく雑談を始めている。
 二言三言言葉を交わすうちに自然と笑い声が起こり、それが伝播するように教室のあちこちから大小の談笑の輪が広がっていった。
 クラスはいつの間にか夏休みが始まる一月前の賑やかな状態に戻っていた。
 入ってくるなりクラスの空気を変えた男子生徒――犬山《いぬやま》蓮《れん》は、肩に掛けたスクールバッグを右手に提げると窓際の後ろから2番目の自分の席に進んだ。
「よっす、紙都!」
 後ろの席に座っていた紙都は手を挙げてそれに答えると、すでに話し込んでいた何人かのクラスメートの会話を終わらせ、蓮の方へ顔を向ける。
「おはよー久しぶり」
「おう、久しぶり! ……って、眼鏡!?」
 蓮はバッグを投げつけるように机の上に置くと、驚いて声を大きくした。その表情を見てぼそっと紙都は呟いた。
「……いつも通りだ」
「あ? 何が?」
「いやーなんでもない」
 紙都は誤魔化すように笑った。
「なんだ? まだ、寝ぼけてんのか?」
「ちげーよ」
 教室はいつもと何も変わらなかった。ただ違うのは、紙都が誤魔化し笑いを続けているその一点だけだ。
「で、なんで眼鏡なんだよ」
「なんでって……実は俺ずっとコンタクトだったんだけど、コンタクトが壊れて。だから今コレ掛けてんだよ」
 用意した台詞をスラスラと並べて、最後に眼鏡を上げた。
「たしかに! 前の方が目が大きく見えたしな」
 じっくりと紙都の顔を眺めた後に、蓮はそう言った。
「それで、どうだった? 夏休みは」
「どうって、特に何もないけど、普通に過ごしてた」
 あの事件を除いては。あの事件以来、生まれたときからずっと育ち、見慣れたどころか見飽きたはずの場所も初めて訪れたかのように錯覚してしまうときがある。
 今このとき、この瞬間もそうだった。
「フツーの毎日か」
 蓮の顔が急ににやけ顔に変わる。爽やかな表情とは打って変わってハイエナを連想させるようないやらしい顔だ。
「あんな美人の御言さんと毎日一緒にいられて、いいなーお前は」
 バシッと鈍い音がした。紙都は半ば本気で蓮の頬を殴った。
「またあの『エロ犬』紙都に殴られてるよ」
「バカだよなぁ。でも、なんかもうあれ挨拶になってんじゃねぇ?」
 微かな手の痛みとともに顔全体に火照ったような熱さを感じた。
「いや~なんか注目を浴びてるぜ」
 頬をさすりながらも嬉しそうに蓮ははにかんだ。
「お前のせいだろ!」
「いや、俺のせいじゃねえよ。これは美しすぎるお前の母親、御言さんのせいだ。御言さんへの熱い思いが親友に殴られても消えないくらいの――」
「わかった! もうそれ以上母さんのことはしゃべんな」
 蓮は大げさにため息を吐くと、肩をすくませて見せた。これでも様になってしまうのだから困ってしまう。
「じゃあ別の女の子の話をしよう」
「いらない」
 紙都は頬杖をついて窓の外に目を向けた。窓のすぐ下は中庭だった。真ん中にある青々と葉を茂らせた大きく太い桜の木を囲むように、はげかけた茶色のベンチが並ぶ。
 校内からでないと入ることのできないその空間には、そろそろ始業のチャイムが鳴るというのにチラホラとカップルのような男女の姿が見えた。
「なんだ、誰か気になるやつでもいんのか?」
 蓮が窓に張り付くように下を覗き込む。
「いないよ」
「なーんか、テンション低いな、お前」
 不意に投げかけられたその一言にはっとして紙都が顔を上げると、蓮の真っ直ぐな瞳とぶつかる。肌の色に似合う茶色がかった黒い瞳に隠し事を見透かされそうで、紙都はすぐに眼鏡を上げて目をそらした。
「なんかあったんじゃねえの?」
「何もねーよ!」
 無理矢理声を張り上げて、笑ってみせる。
「ふーん……なあ、紙都」
「な、なんだよ」
 冷や汗が流れていた。心臓の音がうるさいくらい鳴っていた。
 ──バレるはずがない。例の事件の痕跡は全て消したのだから。それでも脳裏には早朝の御言の声が離れて消えなかった。
 蓮の口が言葉を紡ぐために大きく開いた。
「やっぱ、御言さんきれいだよなあ。今日久々に挨拶したけど、あの凛とした声に立ち居振る舞い。あれはまさに――」
 その後の台詞は声に乗せることができなかった。紙都のやや本気のパンチが再び鼻の下が伸びきったエロ犬の頬にヒットしたからだ。
「……あっ、ごめん」
 条件反射的に、しかも明らかに蓮が悪かったとしても、冗談ですまされない強さで殴ってしまった。妖怪を殺したときに似た後味の悪さだけが握ったままの紙都の右手に残る。
 ところが、蓮は笑った。まじまじとその顔を見ても、作り笑いには見えない快活な笑い顔があった。
「そうそう。それでいいんじゃね?」
「はぁ?」
「何を悩んでるかしらねぇけど、俺が何かやらかすとお前がつっこむ。お前はそれでいいんじゃね?」
 素っ気なくて馬鹿っぽい言い方だった。ただ、それは突き刺すような夏の太陽の日差しではなく穏やかな日だまりのよう。
「……ありがとう」
 紙都は照れくさいのか横目で窓を見ながら小声で答えた。
「だー!! 男に照れられてもぜんっぜん来ないわ!! もう、やめようぜ! はい終了!」
 パンッと手を合わせて、蓮は椅子に戻った。そしてまたにけ顔になる。
「それでさあ。その女の子なんだけど。今日登校中に話しかけられたのよ。誰か探しているみたいだったなぁ」
「誰か探している?」
「そう、何だったっけ? ぬかなんとかって」
 紙都は気づかないうちに身を乗り出して聞いていた。
「いや~可愛い子だったぜ! うちの制服着てたんだけど、髪がなんつーの? なんかオシャレな感じで――」
 そのとき、ガラガラと威勢良く教室の扉が開いた。同時に女子生徒の雷のような怒鳴り声が賑やかな教室を突き抜けた。
「ヌカヅキ出てきなさい!!」