今思い返してみても、阿鷹瑚春との出会いは本当に奇跡的で、物語的だったと思う。
それはよく晴れた三月半ばのある日で、高校一年最後の学期末テストの返却日だった。バイトに明け暮れながらもどうにか赤点を回避した僕は、翌日から終業式までの数日間を補講もなく休日として数えることができるということもあり、校舎裏の自販機でエナジードリンクを買って、ボロボロのベンチに座り孤独な祝杯をあげていた。
校舎裏は日当たりが悪くジメジメしているが、他の生徒があまり足を踏み入れない場所ということで、僕はカッターシャツの裾がはみ出るのも構わずに思い切りのびをしてリラックスモードに入っていた。
そんなふうにだらしなく天を仰いでいた僕の目に飛び込んでくるものがあった。それはフラフラと弱々しく空を泳ぎながら、確実に落下し、僕の方へと向かってきた。
――紙ヒコーキだ。
そう認識したとき、校舎の三階の窓から、ブレザーの腕が伸びたのが見えた。その手元から、またひとつ、紙ヒコーキが中空に放たれた。僕がまばたきをしている間に腕は引っ込み、次の瞬間には同じように伸びた腕から紙ヒコーキが放たれる。そんな様子がさらに繰り返されていく。
僕はエナジードリンクをベンチに置いて、次々落下してくる紙ヒコーキを拾い集める。一体自分はなにをしているんだろう、と思いながら。全部で八つの紙ヒコーキを回収した。
それは、長方形の白いプリント用紙を折って作られたオーソドックスな紙ヒコーキだった。大方、誰かがいたずら半分で折ったものなんだろう。
教師に見つかったら僕が犯人だと誤解されそうなので、まだエナジードリンクは飲み終えていなかったけれど、僕は紙ヒコーキを捨て、渋々この誰にも邪魔されない特等席から離れようとした。
けれど、八つの紙ヒコーキのうちの一機、翼の後方で断片的に覗いている【なめらかな水平面上を一定の力Fで引き、】という文字列が目に止まった。
言ってしまえば、それは違和感のようなものだった。まさかそれを紙ヒコーキにするやつなんて現実にいないだろう、という僕の常識的な価値観が、紙ヒコーキに成り果ててしまったプリントの正体を確かめさせた。
「マジかよ」
そんな独り言が、思わず漏れてしまう。
それは七十五点の物理のテスト用紙だった。僕が見たのは、力学の問題文だったのだ。
名前はご丁寧に消されているけれど、この丸っこい字は明らかに女子のものだった。
まさかと思い、僕はすべての紙ヒコーキを開いた。
世界史七十一点、数学Ⅰ六十三点、日本史八十三点、国語八十六点、英語七十七点、数学A六十五点、科学五十六点。文字の特徴からして、すべて同じ生徒のものであることは明らかだった。
いたのかよ、と僕は心の中で、誰に向けるでもなくツッコんでみる。テストを紙ヒコーキにして投げるなんて、僕が生まれるよりも前に流行った歌の中でしか聞いたことねえよ。
僕は、もう一度まさかと思いながらテスト用紙を裏返してみる。すると、開くときには見落としていたけれど、七十七点の英語のテストの裏にだけ、たった一言、とても大きくはっきりとした、意志を感じる字でこう書いてあった。
【返り咲く】
ふと、僕は導かれるように顔を上げた。
校舎の三階の窓から、鮮やかなピンク色の髪の毛がふわふわと風にたなびいている。ざっと十メートルほどの高さだったけれど、その悪目立ちする髪色の主がこっちを見ているのがはっきりと分かった。
気がつけば、僕は歩き出していた。校舎に入って、階段を登る頃にようやく、ほとんど飲んでいないエナジードリンクをベンチに忘れてしまっていることに気づいた。けれど、そんな事実はすぐに思考の外へと弾き出されてしまう。
彼女と話してみたいと思った。僕が思ったこと、気づいたことを話して確かめてみないと、気が済まないと思った。
三階は、僕たち一年生の教室が並んでいるエリア。自分のクラスである一組を通り過ぎた、二組の教室の前、そこに、肩下までの髪を見事なピンク色に染め上げた阿鷹瑚春が立っていた。照明もついておらず、陽の光も当たらない廊下にあって、彼女の華やかな容貌と佇まいは信じられないほど眩しく、魅力的に映った。
「三分十四秒。すごい、めっちゃ好記録」
けれど、謎のタイムを計測して一人喜んでいるその姿に、彼女があたおか瑚春と呼ばれる所以をはっきりと感じてしまう。
「阿鷹って、どっちかっていうと文系だな」
僕は、向きを揃えたテスト用紙をカードゲームの手札よろしく片手で綺麗に広げながらそう言った。彼女の表情が、すぐにムッとしたものに変わる。
「普通さ、こういうときにテストの点数なんて注目するかな? そんなんだからボッチなんだよ」
「どうして俺がボッチだって決めつけるんだよ」
「だって、てがみ君が誰かと一緒にいたところ、見たことないし」
揺るぎない事実をずばり言い当てられた気恥ずかしさと、自分の名前が不意にあの小さな口許から飛び出した驚きで、僕がわずかに忍ばせていた精神的な余裕は綺麗さっぱり消え失せてしまった。
「こうやって話すの初めてなのに、名前知っててくれてちょっと嬉しい」
今言うことではないなと思ったけれど、余裕を失った僕には適切な判断を下す冷静さは残っていなかった。けれど、失言した僕の揚げ足をとることもなく、阿鷹瑚春は「そりゃ知ってるよ」と頷いた。
「てがみって名前、オリジナリティーありまくりだよね。鯉って書いててがみって読むのが、オシャンティ爆発って感じ」
――ね、沢村鯉君。
阿鷹瑚春は、片目だけを細めながら白い歯を覗かせて笑った。