全国に数多くある稲荷神社と豊川稲荷とでは同じ稲荷でも祭神が違う。
豊川稲荷の大本殿に祀られているのは
荼枳尼天という仏教の神だ。豊川稲荷は神社ではなく寺なのだ。
一般の稲荷神社では主に
稲荷神である
宇迦之御魂神が多く祀られている。宇迦之御魂神は穀物・農業の神だったが、今では産業全体の神と変化し、特に商売をしている人たちから厚く崇敬されている。
だが豊川稲荷に祀られている荼枳尼天はもともとインドの
夜叉女で、ヒンドゥー教のカーリーという闘いの女神の眷属だ。そのため戦国時代では戦国武将に崇敬され、城内で祀られている稲荷社の祭神はほとんどが荼枳尼天だった。
荼枳尼天の起源であるインドの
荼枳尼は人の死肉を食べるため、
尸林と言われる地獄のような葬場兼処刑場を好んだ。
また、荼枳尼には裸で天を駆け、敵を殺し、その血肉を食らうという恐ろしい魔女の側面もあった。
荼枳尼天は
大黒天によって調伏されたので、人を殺す鬼神ではなくなった。だが、荼枳尼にとって人の心臓を食べるということは呪力を維持するために欠かせない。そのため、荼枳尼天は大黒天から死者の心臓であれば食べることを許された。
荼枳尼天信仰は強力な御利益があると言われている。そのため商売人からの崇敬を集めるようになったが、訳も知らずに荼枳尼天を信仰するのは危険だと言われている。
荼枳尼天という女神は高僧にとっても
祭祀が難しいとされている。それは荼枳尼天を祀るためには自分の命と引き換えに、死ぬまで信仰し続けなければならないからだ。
途中で信仰をやめると祟り神となり、禍がもたらされ没落すると言われている。豊川稲荷ではそんな荼枳尼天を祈祷の本尊としているが、果たしてそれを一般人の参拝客がやれるのか?
大本殿に参拝する前に
藤城皐月は覚えている限りの荼枳尼天の知識を
入屋千智と
及川祐希に伝えた。予習が足りないと思っていたが、話し始めると案外すらすらと言葉が出てきた。
皐月は自分の意見として、ここではお願い事をするのではなく挨拶するだけにしようと提案をした。
「挨拶するのも怖いな……」
祐希が参拝するのを躊躇しだした。
「さっき参拝しちゃったよ……」
「大丈夫だよ。だって荼枳尼天のこと知らずに参拝したんでしょ。そんなの真剣な信仰としてカウントされないって」
千智は怯えているようだ。
「それに、ここって毎年何百万人もの人が参拝してるんだよ。みんながみんな真剣にお祈りしているわけじゃないだろうし、信仰に失敗している人だっていっぱいいると思うんだよね。もし祟りの話が今に生きているんだったら、ここはパワースポットじゃなくて不幸を撒き散らす
穢れ地になっちゃうよ」
「じゃあさっき参拝したこと、気にしなくてもいいのかな?」
「全然気にしなくてもいいよ。そんなこと言ったら俺なんて今まで何十回も手を合わせちゃってるよ。百回以上かな? 多すぎて忘れちゃった」
強がっては見たものの、皐月も少し怖くなってきた。
「祟られたことはないの?」
「ないない、そんなの」
「じゃあ、なんでさっき挨拶するだけにしようって言ったの?」
祐希が突っ込まれたくないところを聞いてきた。千智への慰めが自己矛盾になっている。
「それは荼枳尼天について知っちゃったからさ。知っててあえてお祈りするのはさすがに覚悟がいるでしょ。ここで真剣にお祈りするのはよっぽど切羽詰まった状況にならない限りやめておいたほうがいいと思うんだ」
「先輩って百回も手を合わせたんだ……これから先、大丈夫なの?」
「たぶん……。荼枳尼天について知ってからは、豊川稲荷に来るたびに『いつもありがとう』って心の中で言ってる」
「なんでありがとうなの?」
「ここで遊ばせてくれてありがとう、ってお礼を言うべきかなって思うようになった」
千智と祐希はやっと生き返ったような顔になった。その反面、皐月の方が不安になってきた。自分は信仰を途中で放棄したことになるのではないか。ならば今後、大きな
禍が待ち受けているのではないか……。
「じゃあ千智ちゃん、私たちも荼枳尼天様にお礼を言おうか」
「お礼を言わなきゃいけないこと、いっぱいあるね」
すっかり元気を取り戻した千智と祐希、不安に駆られ始めた皐月たち三人は本殿の大提灯の下を通り抜け、お香の香り漂う
外陣へ入った。奥の内陣には荼枳尼天が
奉祀されているが、暗くて中の様子が良く見えない。
賽銭を入れ、手を合わせようとした時、祐希が千智に注意した。
「千智ちゃん、キャップ取った方がいいよ」
「あっ、いけない!」
キャップを取った千智は目元がはっきり見えるようになり、荼枳尼天が嫉妬しそうなほどかわいくなった。千智が前髪をかきあげると、汗に濡れた前髪が
束っぽくなって、軽く巻かれたようになった。
そんな千智を見て、祐希が満足げに無言で頷いていた。参拝を済ませた後、千智がキャップをかぶり直そうとすると祐希が止めた。
「私にもキャップかぶらせてよ」
「どうぞ」
レトロガーリーな祐希のコーデにはストリート系のキャップはカジュアルすぎるが、千智は似合ってると褒めていた。
「千智ちゃん、絶対キャップかぶらない方がかわいいよ」
千智の顔が曇った。
「かぶっちゃダメ?」
「ダメってわけじゃないけど、せっかくの美人が台無しかなって思って……」
「別に美人じゃないですよ……」
声が小さくなり、千智の言葉が敬語に戻っていた。
「いや、千智はマジで綺麗だよ」
千智が大きく目を見開いて皐月を見た。「えっ」と声を出した祐希はすぐに手で口を押さえた。
皐月はいつも明日美に「今日も世界一綺麗だ」と言っているので、女子に綺麗と言うことくらいくらい普通のことだ。しかし、二人の驚いた顔を見ているうちに、変なことを言ってしまったんじゃないのかと焦ってきた。
「ちょ、ちょっと先輩、何言ってんの!」
千智の顔から一瞬で陰りが消えた。照れる千智を見ていると、皐月にも心に余裕が出てきた。
「千智ってさ、学校で俺のことイケメンって言ってくれたじゃん。そのお返しだよ」
「も〜っ、びっくりさせないでよ〜」
祐希が千智を冷やかし始めてはしゃぎ出したので、皐月は聞かないふりをして大本殿の階段を一人先に下った。