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20 豊川稲荷の思い出

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 豊川稲荷は日本三大稲荷の一つとして有名で、商売繁盛などを願い、日本全国から年間五百万人もの参拝者が訪れる名刹だ。
 豊川稲荷といっても神社ではなく、妙厳寺(みょうごんじ)という曹洞宗(そうとうしゅう)の寺院だ。本殿には荼枳尼天(だきにてん)という、白い狐にまたがったインドの女神が祀られている。
「お稲荷さんにはよく遊びに来るけど、祀られている神様とか仏様のこととか、よく知らないんだ」
 藤城皐月(ふじしろさつき)には豊川稲荷について自信を持って語れるほど知識がない。宗教心がないので由来にも興味がなく、何を案内したらいいのかわからない。
 皐月は入屋千智(いりやちさと)とここに来るまでに予習しておくつもりだったが、まさか今日がその日になるとは思わなかった。

 豊川稲荷の境内は参道が石張りになっていて、とても高級感がある。参拝客はこの参道に沿って歩いていけば、境内の堂塔伽藍(どうとうがらん)を一通り巡ることができる。
「低学年の頃はよく境内で自転車を乗り回してたんだ。参道がサーキットのコースみたいで面白くてさ。みんなで競輪してた」
「そんなことして、お寺の人に怒られなかったの?」
 千智が呆れた顔をしている。
「うん、怒られなかった。その頃の俺たちってまだ小さかったから見逃してもらっていたのかもしれない。今そんなことしたら絶対に怒られるだろうな」
「藤城先輩って悪い子だったんだね」
「我ながらひどかったと思う。まあ、今でもクソガキなのは変わらないんだけどね。でも、今ならそんなバカなことはしないよ」
 話すことがないからと、つい自分の悪行を暴露してしまった。皐月は自分の馬鹿さ加減に情けなくなってきた。千智に嫌われたかもしれない。

 総門を抜けるとすぐに参道が分岐する。真っ直ぐ進めば山門があり、左に曲がれば大本殿に続く参道になる。この参道は寺院なのに鳥居があったり、狛犬が狐だったりするところに面白味があるが、それ以外は皐月が語れる見所がない。
 参道の左手には寺寶館(じほうかん)という大きな建物があるが、ここは子どもだけで入るところではない。それに皐月はまだ寺寶館の中に入ったことがないので話すネタもない。だから今日は参道を左に曲がらずに真っすぐ進むことにした。
「豊川稲荷の建物って素敵ね。私の地元の鳳来寺(ほうらいじ)とまた違った魅力がある」
 及川祐希(おいかわゆうき)が嬉しそうに境内を見回している。皐月はまだ鳳来寺に行ったことがないけれど、地理的な知識ならある。飯田線の本長篠(ほんながしの)駅からバスが出ている。
「でもぱっと見、新しい建物も結構ありますよね。そういうところが今風っていうか、個人的には微妙です。地元が鳳来寺って、祐希さんってどこから引っ越して来たんですか?」
 千智は祐希のことを及川先輩や祐希先輩とは呼ばなかった。
「私が住んでたのは新城(しんしろ)の山奥だよ。湯谷(ゆや)温泉とか愛知県民の森って知ってる? そこよりもちょっとだけ奥かな。飯田線の駅でいえば柿平(かきだいら)。聞いたことないよね?」
「俺、知ってる。愛知県内の駅ならたぶん全部覚えているよ。柿平って相当奥の方だよね」
「私、県民の森は7月に学校行事でキャンプに行きました。そっか〜、祐希さんは自然豊かなところからいらしたんですね」
「へへっ、田舎娘なの。あ、それから千智ちゃんも私と話す時は敬語使わなくていいよ。皐月なんて私のこと呼び捨てにするんだから」
「自分が呼び捨てにしてもいいって言ったじゃんか!」

 右手に見える鐘楼堂(しょうろうどう)はキューブっぽい形が格好良くて、皐月はここを気に入っている。豊川稲荷の鳩はなぜか鐘楼堂に集まってくるので、千智がさっきまで鳩と戯れていた場所はここに違いない。
 小学校の豊川稲荷写生大会で皐月はこの鐘楼堂の絵を描いた。鐘楼堂と一緒に鳩を描きたくてここを題材に選んだ。参道の左側にある樹の下が日陰になって涼しく、鐘楼堂も鳩もよく見える。鳩を主役にした構図が美術の先生から評価され、学年賞をもらった。
「藤城先輩って絵うまいんだ」
「うまくはないと思うけど、絵を描くのは割と好き。でも飽き症だからできればパパッと描いちゃいたい。一日中絵を描き続けるのは苦手だから、一時間ごとに鐘楼堂の石垣のクライミングに挑戦していたよ」
「あんなの登れるわけないじゃん」
 祐希と千智が呆れ顔で皐月を見た。

「絵っていえば千智ちゃんのTシャツって何かの絵だよね。アートって言ったほうがいいのかな」
 祐希も千智のTシャツのデザインに目をつけた。
「レットナっていう画家の抽象画だけど、これが絵なのかって言われると私にはよくわからない」
「絵画の鑑賞とか好きなの?」
「うん。お父さんが抽象画が好きで、その影響で私も絵を見るのは好きかな」
「じゃあ絵を描くのはどう?」
「描く方は特に……どっちかって言えば下手かも。賞なんてもらったことないよ。私は見る方専門でいい」
「じゃあ今度は彼氏と美術館でデートだね。わかった? 皐月」
「えっ? 俺?」
 こんな言い方をされると千智が不愉快な思いをするかもしれない。そうなればこっちだって傷つくのに、と皐月は祐希のことを恨めしく思った。
 千智の方を見てみると、特に嫌そうな顔をしていなかったのでホッとした。でも美術館でデートなんて言われた千智がどんな気持ちなのかは気になる。皐月は千智とデートができるならしてみたいと思った。



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 豊川稲荷は日本三大稲荷の一つとして有名で、商売繁盛などを願い、日本全国から年間五百万人もの参拝者が訪れる名刹だ。
 豊川稲荷といっても神社ではなく、|妙厳寺《みょうごんじ》という|曹洞宗《そうとうしゅう》の寺院だ。本殿には|荼枳尼天《だきにてん》という、白い狐にまたがったインドの女神が祀られている。
「お稲荷さんにはよく遊びに来るけど、祀られている神様とか仏様のこととか、よく知らないんだ」
 |藤城皐月《ふじしろさつき》には豊川稲荷について自信を持って語れるほど知識がない。宗教心がないので由来にも興味がなく、何を案内したらいいのかわからない。
 皐月は|入屋千智《いりやちさと》とここに来るまでに予習しておくつもりだったが、まさか今日がその日になるとは思わなかった。
 豊川稲荷の境内は参道が石張りになっていて、とても高級感がある。参拝客はこの参道に沿って歩いていけば、境内の|堂塔伽藍《どうとうがらん》を一通り巡ることができる。
「低学年の頃はよく境内で自転車を乗り回してたんだ。参道がサーキットのコースみたいで面白くてさ。みんなで競輪してた」
「そんなことして、お寺の人に怒られなかったの?」
 千智が呆れた顔をしている。
「うん、怒られなかった。その頃の俺たちってまだ小さかったから見逃してもらっていたのかもしれない。今そんなことしたら絶対に怒られるだろうな」
「藤城先輩って悪い子だったんだね」
「我ながらひどかったと思う。まあ、今でもクソガキなのは変わらないんだけどね。でも、今ならそんなバカなことはしないよ」
 話すことがないからと、つい自分の悪行を暴露してしまった。皐月は自分の馬鹿さ加減に情けなくなってきた。千智に嫌われたかもしれない。
 総門を抜けるとすぐに参道が分岐する。真っ直ぐ進めば山門があり、左に曲がれば大本殿に続く参道になる。この参道は寺院なのに鳥居があったり、狛犬が狐だったりするところに面白味があるが、それ以外は皐月が語れる見所がない。
 参道の左手には|寺寶館《じほうかん》という大きな建物があるが、ここは子どもだけで入るところではない。それに皐月はまだ寺寶館の中に入ったことがないので話すネタもない。だから今日は参道を左に曲がらずに真っすぐ進むことにした。
「豊川稲荷の建物って素敵ね。私の地元の|鳳来寺《ほうらいじ》とまた違った魅力がある」
 |及川祐希《おいかわゆうき》が嬉しそうに境内を見回している。皐月はまだ鳳来寺に行ったことがないけれど、地理的な知識ならある。飯田線の|本長篠《ほんながしの》駅からバスが出ている。
「でもぱっと見、新しい建物も結構ありますよね。そういうところが今風っていうか、個人的には微妙です。地元が鳳来寺って、祐希さんってどこから引っ越して来たんですか?」
 千智は祐希のことを及川先輩や祐希先輩とは呼ばなかった。
「私が住んでたのは|新城《しんしろ》の山奥だよ。|湯谷《ゆや》温泉とか愛知県民の森って知ってる? そこよりもちょっとだけ奥かな。飯田線の駅でいえば|柿平《かきだいら》。聞いたことないよね?」
「俺、知ってる。愛知県内の駅ならたぶん全部覚えているよ。柿平って相当奥の方だよね」
「私、県民の森は7月に学校行事でキャンプに行きました。そっか〜、祐希さんは自然豊かなところからいらしたんですね」
「へへっ、田舎娘なの。あ、それから千智ちゃんも私と話す時は敬語使わなくていいよ。皐月なんて私のこと呼び捨てにするんだから」
「自分が呼び捨てにしてもいいって言ったじゃんか!」
 右手に見える|鐘楼堂《しょうろうどう》はキューブっぽい形が格好良くて、皐月はここを気に入っている。豊川稲荷の鳩はなぜか鐘楼堂に集まってくるので、千智がさっきまで鳩と戯れていた場所はここに違いない。
 小学校の豊川稲荷写生大会で皐月はこの鐘楼堂の絵を描いた。鐘楼堂と一緒に鳩を描きたくてここを題材に選んだ。参道の左側にある樹の下が日陰になって涼しく、鐘楼堂も鳩もよく見える。鳩を主役にした構図が美術の先生から評価され、学年賞をもらった。
「藤城先輩って絵うまいんだ」
「うまくはないと思うけど、絵を描くのは割と好き。でも飽き症だからできればパパッと描いちゃいたい。一日中絵を描き続けるのは苦手だから、一時間ごとに鐘楼堂の石垣のクライミングに挑戦していたよ」
「あんなの登れるわけないじゃん」
 祐希と千智が呆れ顔で皐月を見た。
「絵っていえば千智ちゃんのTシャツって何かの絵だよね。アートって言ったほうがいいのかな」
 祐希も千智のTシャツのデザインに目をつけた。
「レットナっていう画家の抽象画だけど、これが絵なのかって言われると私にはよくわからない」
「絵画の鑑賞とか好きなの?」
「うん。お父さんが抽象画が好きで、その影響で私も絵を見るのは好きかな」
「じゃあ絵を描くのはどう?」
「描く方は特に……どっちかって言えば下手かも。賞なんてもらったことないよ。私は見る方専門でいい」
「じゃあ今度は彼氏と美術館でデートだね。わかった? 皐月」
「えっ? 俺?」
 こんな言い方をされると千智が不愉快な思いをするかもしれない。そうなればこっちだって傷つくのに、と皐月は祐希のことを恨めしく思った。
 千智の方を見てみると、特に嫌そうな顔をしていなかったのでホッとした。でも美術館でデートなんて言われた千智がどんな気持ちなのかは気になる。皐月は千智とデートができるならしてみたいと思った。