「
幼なじみが恋愛対象にならない理由を生物学や心理学的な検知から説明できるんですか?」
上級生の言葉に反応した私は、思わず彼女の言葉を繰り返した。私の発した一言に、一瞬だけ顔をしかめた先輩は、淡々とした口調で語る。
「あぁ、そうだ。小さいころから一緒に暮らしてきた相手と男女関係になりにくくなる現象のことをウェスターマーク効果という。これは、生物学で言うところの刷り込み = インプリンティングの一種だと考えられているのだが……くわしい話しは、第二理科室の方で説明しようと思うが、どうかな?」
「はあ、わかりました」
文芸部に行く予定をセルフキャンセルし、親友に愚痴を聞いてもらうまでには、まだまだ時間の余裕があったので、私は少し怪しげなネーミングの同好会が活動している場所に、大した警戒感を抱くこともなくついて行くことにした。
朱令陣先輩が案内してくれたのは、第二理科室本体ではなく、その準備室の方だった。
「人数も少ないし、こちらの方が、落ち着いて話せるのでね」
入学して間もない時期ということもあって、化学や生物の科目では、まだ教室移動を行って授業をしたことが無かったので、理科室にも、その準備室にも入ったことがない私にとって、第二理科準備室の内部は、初めて目にする物が多く新鮮に感じられた。
第二理科室本体の四分の一ほども無い狭い準備室の室内では、ハムスターやウサギが飼育ゲージの中を動き回り、水槽ではメダカのほかに、名前のわからない縞模様の小さな魚が泳いでいた。それらの生物たちを興味深く眺めていると、上級生は私の視線に気がついたのか、その小魚についての解説を始める。
「ゼブラフィッシュが気になるようだね? 縞模様がキレイだろう? この魚は、以下のような点で、遺伝学研究、発生生物学研究に用いる上での優れた特長を持っているんだ。飼育が容易であること、多産で一日一組のオスメスが最大数百の受精卵を産すること、世代時間が短く生殖を始めるまで二か月半〜三か月くらいであること、卵から孵化までの過程で胚が透明なために観察、操作が容易であること。結果として、実験発生学的実験と遺伝学的解析を同時に行える点で、脊椎動物では他に例がない。脊椎動物であるヒトを含んでいるために共通点が多いんだ」
この手の話しをする人物の典型的な例に漏れることなく、彼女も専門的な内容の事柄をまくしたてるように、一気に語る。なにやら、生物学的には重要である、ということだけは伝わったけれど、生物の科目を選択しているものの、文化系の自分には、サッパリ不明な内容だったため、
「はあ、そうなんですか……」
と、曖昧な笑みを浮かべながら言葉を返す。そんな私の反応に気づいたのかどうか定かではないけれど、先ほどの話しから脱線している、と感じたようで、廊下で話してくれた、ナントカ効果についての説明を続けてくれた。
「そうそう、ウェスターマーク効果のことだったね。この現象は、reverse sexual imprinting = 逆性的刷り込みとも言われ、さっきも話したように、小さいころから一緒に暮らしてきた相手とは男女関係になりにくくなる事象のことだ。幼い頃ころからともに育った男女は、恋愛関係になりにくいうえ、結婚生活も上手くいかない傾向がある。これは、近親姦を抑制する主要な生物学的機構の一つだと考えられていて、人間だけでなく、霊長類をはじめ、うずら、はつかねずみなどでも同様の現象が確認されている」
「それじゃ、やっぱり、私が犬太……いえ、戌井くんの急な告白に驚いたのは、生物学的に正しい反応だったんですね!」
詳しいことは良くわからないままだけど、自分の感じた困惑が、ほかの生物にも見られる自然な現象だと教えてもらって、なんだか、気分が楽になった。幼なじみからの交際の申込みという突発イベントでモヤモヤとしていた自分の感情が晴れていくような気持ちになり、それだけでも、このちょっと強引な性格の先輩に感謝したくなった。
そこで、「ありがとうございました」と、感謝の気持ちを述べようとしたんだけど……。
「あぁ、だが待ってほしい。この研究や検証結果には、疑義が示されている。ウェスターマーク効果が評価され始めたのは、ユダヤ人が形成する『キブツ』という共同体社会でのレポートが発端になっている。18歳頃までの少年少女は、生物学的家族から引き離され、擬似家族のようにともに育てられる、『キブツ』で一緒に生活していた仲間との結婚を避ける傾向が見られた、ということだそうだ。だが、この通説には疑問が残る」
「ぎ、疑問ってどんなことですか?」
せっかく、幼なじみの空気の読めていない告白に対する嫌悪感を罪悪感なく受け止めることが出来そうだったのに……と不満に感じながら、私は上級生に聞き返した。
「もちろん、このような研究結果を単純に排除するのは不可能だが、それでも疑問の余地が無いわけではない。まず第一に、宗教的束縛の強く、純潔主義的な土地や集団ではどんなに精密に調査を行っても実情は掴み難い。結婚はしなくとも性行為はあった可能性がある。第二に、女子は適齢期に達するのが早く、年上の男と結婚し夫とする可能性が高い。そして、第三に、『キブツ』という集団に関しては教育が抑制的で、『性衝動を抑えよ』という思想が存在していたことから、思春期に近しい関係にあった異性に対しては自己検閲によって性的願望が特に強く抑圧されたのではないか、ということも考えられる」
「つ、つまり、どういうことなんですか?」
「あぁ、つまりだね。『幼馴染とはラブコメにならない』ということは、タイトルのとおり生物学的に正しい側面があることは認めよう。ただし、人間社会は、きわめて複雑なシステムで成り立っていて、生物学上の法則はしばしば例外が発生する。ウェスターマーク効果もこの例に漏れず、突然変異や特異な環境要因など様々な理由で弱まったり強まったりする可能性がある。そうした条件がどのようなものでどの程度の影響があるのかも、研究が進むにつれて明らかになってゆくだろう」
「は、はあ……」
「まだ、わからないのかい? では、キミの得意分野に寄せて例を出そう。バーナード・モンゴメリーの『赤毛のアン』やジェイン・オースティンの『エマ』のような古典文学から、大人気コミックの『タッチ』や『名探偵コナン』に至るまで、幼なじみと言えば、男女関係の花形にして王道じゃないか? 『幼馴染とはラブコメにならない』という、タイトルに反して幼なじみ推しの作品もあれば、『幼なじみが絶対に負けないラブコメ』という素晴らしいタイトルのラノベもある! つまりは、幼なじみだからと言って、恋路をあきらめる理由にはならない、ということだ!!」
「い、いきなり、フィクションの作品を引き合いに出さないで下さい! どんだけ、幼なじみが好きなんですか! それに、どう考えても、さっきの生物学や心理学の話しよりも説得力が落ちてますよ!?」
とつぜん、自らの見解を反転させた相手にドン引きしながら、私がツッコミを入れると、不意に第二理科準備室のドアが、コンコンとノックされた。
「禰子〜、なにしてるの〜?」
そう問いかけながら、準備室に入ってきたのは、可愛らしい顔をした男子生徒だった。