第六十六話「暗い海に沈む月」
ー/ー
クイーンズカップが終わった翌日。
木星圏烈風ジムの屋内走路には、重い空気が漂っていた。
クロエはひとり、走路中央に立ち尽くしていた。
視線は下を向き、握りしめた拳が小さく震えている。
(……なんで……あんな子に……)
昨日のレースが脳裏で何度も繰り返される。
スタートから完璧だった。
ナビゲーターの玲那の指示も、自分の加速も、何一つ間違っていなかった。
――なのに。
「簡単に……抜かれた……!」
呟いた声は自分でも驚くほど弱く、震えていた。
(何のために……ここまで……女子限定戦を無敗で駆け抜けてきたの……)
クロエの胸を満たしていたのは、焦りや恐怖を超えた――絶望。
負けるはずがないと思っていた。
どんな相手にも、自分の走りが通用すると信じていた。
でも現実は。
あまりにあっさりと、あまりに無慈悲に、勝利という光を奪い去った。
「いや……いやいやいや……!!」
クロエは叫び、壁に拳を叩きつけた。
骨が軋む鈍い音とともに、走路にその声が虚しく響いた。
「こんなの……こんなの……私じゃない……!」
床に膝をつき、涙が零れ落ちる。
「勝ちたい……勝たなきゃ……勝たなきゃ……!」
どれだけ練習しても、どれだけ強くなっても、フリアノンのあの“光”には届かないのではないか――
そんな思いがクロエの心を蝕んでいく。
(もう……だめ……)
暗闇に沈みかけたそのとき――
「……何をしているんだい、クロエ君。」
落ち着いた低い声が背後から響いた。
クロエは涙に濡れた顔を上げた。
そこには、烈風ジムの来賓室から出てきたヴェルナー・クロイツの姿があった。
「……ヴェルナーさん……」
「君がここまで落ち込むなんて珍しい。」
クロエは唇を噛み、視線を逸らす。
「……私……負けたんです……惨めなほどに……!」
震える声。
その言葉に、ヴェルナーはふっと微笑んだ。
「負けることがそんなに怖いかい?」
「怖い……! 怖いに決まってます! 私は……負けるために走ってるんじゃない……!」
「そうだね。」
ヴェルナーはゆっくりとクロエの正面に立ち、膝をついた。
「君は負けるために走ってるんじゃない。勝つために走ってる。」
クロエは目を伏せた。
「でも……勝てなかったら……私……」
「なら、勝てるようになればいい。」
ヴェルナーの言葉はあまりに当たり前で、だけどあまりに優しかった。
「勝てなかったからといって、終わりじゃない。むしろ、そこからが始まりだよ。」
クロエの瞳に涙が滲む。
「でも……私には……」
「君には僕がいる。」
ヴェルナーは静かにクロエの手を取り、その冷たい指を自分の大きな手で包み込んだ。
「僕と組もう。君をもう一度、いや、今まで以上に速いサイドールにしてみせる。」
クロエは目を見開き、震える声で尋ねた。
「……本当に……?」
「僕が言ったことは、嘘じゃない。」
ヴェルナーの瞳は真剣で、そしてどこまでも温かかった。
クロエの胸の奥に、暗闇を切り裂くように小さな光が灯った。
「……はい……お願いします……!」
その日、クロエは暗い海の底から救い出された。
そして、再び女王への道を歩み出す決意を胸に刻むのだった。
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スタートから完璧だった。
ナビゲーターの玲那の指示も、自分の加速も、何一つ間違っていなかった。
――なのに。
「簡単に……抜かれた……!」
呟いた声は自分でも驚くほど弱く、震えていた。
(何のために……ここまで……女子限定戦を無敗で駆け抜けてきたの……)
クロエの胸を満たしていたのは、焦りや恐怖を超えた――絶望。
負けるはずがないと思っていた。
どんな相手にも、自分の走りが通用すると信じていた。
でも現実は。
あまりにあっさりと、あまりに無慈悲に、勝利という光を奪い去った。
「いや……いやいやいや……!!」
クロエは叫び、壁に拳を叩きつけた。
骨が軋む鈍い音とともに、走路にその声が虚しく響いた。
「こんなの……こんなの……私じゃない……!」
床に膝をつき、涙が零れ落ちる。
「勝ちたい……勝たなきゃ……勝たなきゃ……!」
どれだけ練習しても、どれだけ強くなっても、フリアノンのあの“光”には届かないのではないか――
そんな思いがクロエの心を蝕んでいく。
(もう……だめ……)
暗闇に沈みかけたそのとき――
「……何をしているんだい、クロエ君。」
落ち着いた低い声が背後から響いた。
クロエは涙に濡れた顔を上げた。
そこには、烈風ジムの来賓室から出てきたヴェルナー・クロイツの姿があった。
「……ヴェルナーさん……」
「君がここまで落ち込むなんて珍しい。」
クロエは唇を噛み、視線を逸らす。
「……私……負けたんです……惨めなほどに……!」
震える声。
その言葉に、ヴェルナーはふっと微笑んだ。
「負けることがそんなに怖いかい?」
「怖い……! 怖いに決まってます! 私は……負けるために走ってるんじゃない……!」
「そうだね。」
ヴェルナーはゆっくりとクロエの正面に立ち、膝をついた。
「君は負けるために走ってるんじゃない。勝つために走ってる。」
クロエは目を伏せた。
「でも……勝てなかったら……私……」
「なら、勝てるようになればいい。」
ヴェルナーの言葉はあまりに当たり前で、だけどあまりに優しかった。
「勝てなかったからといって、終わりじゃない。むしろ、そこからが始まりだよ。」
クロエの瞳に涙が滲む。
「でも……私には……」
「君には僕がいる。」
ヴェルナーは静かにクロエの手を取り、その冷たい指を自分の大きな手で包み込んだ。
「僕と組もう。君をもう一度、いや、今まで以上に速いサイドールにしてみせる。」
クロエは目を見開き、震える声で尋ねた。
「……本当に……?」
「僕が言ったことは、嘘じゃない。」
ヴェルナーの瞳は真剣で、そしてどこまでも温かかった。
クロエの胸の奥に、暗闇を切り裂くように小さな光が灯った。
「……はい……お願いします……!」
その日、クロエは暗い海の底から救い出された。
そして、再び女王への道を歩み出す決意を胸に刻むのだった。