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1. 絶望の朝礼

ー/ー



 魔王城、玉座の間――。

 かつて大陸全土を震撼させた恐怖の象徴は、今や哀れな廃墟と化していた。

 天井を這う蜘蛛の巣が、幾重にも垂れ下がって薄気味悪い影を作り出している。壁面に誇らしげに飾られていたはずの魔獣(まじゅう)の剥製たちは、埃に埋もれて原型すら判別できない。玉座――かつては黒曜石で作られ、見る者を圧倒した魔王の座は、右の肘掛けが無残に砕け散り、左側だけが寂しく残っている有様だった。

 力なく明滅する魔力灯の下、魔王軍の幹部たちが肩を落として整列していた。誰もが継ぎ接ぎだらけの鎧を着込み、かつての栄光など微塵も感じさせない。

「こ、今月の……財務報告を……」

 経理担当のゾンビ、骸骨卿(がいこつきょう)ボーンズが、カタカタと震える骨の手で羊皮紙を掲げた。眼窩の奥で揺らめく青白い魂の炎が、今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。

「申し上げ……ます……」

 彼は震え声で続けた。

「軍事予算、残り……さ、三百ゴールド」

 その瞬間、玉座の間の空気が凍りついた。

 誰も息をしない。いや、できない。重苦しい沈黙が、まるで物理的な重さを持って全員の肩にのしかかる。

「……三百、だと?」

 玉座の影から、地の底から響くような声が漏れた。

 魔王ゼノヴィアス。

 漆黒の鎧に身を包んだ巨躯。額から生える禍々しい二本の角。そして、怒りとも絶望ともつかぬ光を宿す深紅の瞳。かつて世界を恐怖で支配した暴君が、そこにいた。

 いや――いたはずだった。

「は、はい……」ボーンズの声は、もはや悲鳴に近い。「兵士一人あたりの食費は……も、もはや計算すら……計算不能にございます……」

 ゾンビに涙腺はない。だが、誰もが見た。彼の魂が、確かに泣いているのを。

「陛下!」

 堪りかねたように、オーク部隊長が前に出た。凹んだ胸当てが、歩くたびに情けない音を立てる。

「もう限界です! 兵士たちの士気は地に落ちております!」

 オークの太い指が、震えながら拳を作る。

「昨日の夕飯をご存知ですか? 魔界スライムを煮詰めた後の……その『出がらし』です! 出がらしですぞ! もはや味も、栄養も、希望すらも残っておりません!」

 彼の声が裏返った。

「このままでは……脱走兵が……いえ、全員が飢え死にします!」

「なんだと!?」

 ゼノヴィアスが玉座から立ち上がった瞬間、圧倒的な魔力が爆発的に放出された。

 ゴゴゴゴゴ……!

 城全体が震え、幹部たちが恐怖で後ずさる。ああ、これだ。これこそが魔王の力。世界を震撼させた絶対的な暴力――。

「余の兵が……余の大切な兵士たちが、そこまで飢えているというのか!?」

 魔王の咆哮が、雷鳴のように轟いた。

「ならば余が行く! 今すぐ森へ出て、巨大ワイバーンでも、古龍(こりゅう)でも狩ってくる! 皆に肉を! 腹いっぱい、血の滴る新鮮な肉を食わせてやる!」

「お待ちください、陛下」

 凛とした声が、嵐のような魔王の激情を切り裂いた。

 玉座の横の影から、一人の女性が優雅に歩み出る。

 艶やかな黒髪が、わずかな魔力灯の光を受けて妖しく輝き、切れ長の赤い瞳は理知と妖艶さを同時に宿していた。背中から生えた小さな蝙蝠の翼、しなやかに揺れる尻尾――彼女こそ、魔王の秘書官にして最後の理性の砦、サキュバスのリリスだった。

「確かに、陛下がワイバーンを狩れば肉は手に入るでしょう」

「しかし……」

 彼女の声は、氷のように冷たく、そして残酷なまでに正確だった。

「その巨大な獲物を解体する職人への賃金はどうなさいます? 少なくとも三千ゴールド……。調理する料理人への報酬は?」

 リリスは魔王の顔をのぞきこむ。

「我々は、陛下の善意によって完全に破産します」

「……」

 ゼノヴィアスは、まるで巨大な岩でも背負わされたかのように、ゆっくりと玉座に沈み込んだ。反論の言葉など、一つも浮かばない。

「だが……だが余は……」

 魔王の声が震えた。五百年の生涯で初めて、彼は自分の無力を噛みしめていた。

「余は……余は……!」

 言葉が続かない。代わりに、獣のような咆哮が喉の奥から漏れた。

「うおおおおおおお!」

 拳が振り下ろされ、玉座の左肘掛けが粉々に砕け散った。

 パキィィィン!

 木片が飛び散り、幹部たちが慌てて顔を覆う。

「ああ……また……」

 リリスが深い、深いため息をついた。美しい顔に、諦めとも慈愛ともつかない表情が浮かぶ。

「陛下、玉座の修理費がまた三百ゴールド……あ、ちょうど残金と同じですね」

「わ、分かっておる!」

 ゼノヴィアスは頭を抱えた。巨大な手が、自分の角を掴んでギリギリと音を立てる。

「分かっておるが……分かっておるのだが……!」

 最強の魔王。
 世界の支配者。
 恐怖の化身。

 その全ての称号が、「金欠」という二文字の前には、まるで意味を成さなかった。


   ◇


 その夜魔王執務室――――。

 色褪せたタペストリーが、まるで過去の栄光を悼むように壁に垂れ下がっている。かつては宝石がちりばめられていた燭台も、今は錆びついた鉄の塊と化していた。

 ゼノヴィアスは一人、割れた窓から外を眺めていた。

 眼下に広がる魔王領の城下町。かつては魔族たちの笑い声と、商人たちの喧騒で賑わっていた通りも、今は死んだように静まり返っている。家々の窓から漏れる灯りもまばらで、まるでゴーストタウンである。

 人間の王都は、まるで地上に降りた星々のように煌めいているというのに我が魔王領はもはや滅亡寸前だった。停戦協定など無視して攻め入って略奪でもすればいいのだが、餓死寸前の魔王軍にはその力も残っていなかった。

 コンコン!

「失礼します!」

 重い扉が開きリリスが粗末な木の盆を手に入ってくる。

 その上には、茶と呼ぶのも(はばか)られる茶色い液体が入った、欠けた杯が載っていた。

「お茶を……」リリスは苦笑した。「いえ、お茶のようなものを、お持ちしました」

「すまぬな」

 ゼノヴィアスは振り返らなかった。ただ、低い声だけが響く。

「なぜだ、リリス」

 ゼノヴィアスの肩が、わずかに震えた。

「余は力で敵を蹂躙した。恐怖で大陸を支配した。魔王軍の名を聞けば、赤子も泣き止んだ」

 彼の拳が、ギリと音を立てて握られる。

「だが、停戦から五十年……人間どもは廃墟から立ち上がり、今やあの煌びやかさだ。それに引き換え、我らは……」

 振り返ったゼノヴィアスの顔に、いつもの威厳はなかった。

 そこにいたのは、疲れ果て、打ちのめされた、一人の敗北者だった。

「陛下は戦の天才ですが……」

 リリスは優しく微笑みながら、まずい茶を差し出した。

「経済の天才では、ございませんでしたから」

「……そうか」

 ゼノヴィアスは自嘲の笑みを浮かべ、茶を受け取った。一口含んで、即座に顔をしかめる。

「まずいな……いや、まずいを通り越して、これは毒ではないか?」

「申し訳ございません。良い茶葉を買う予算が……いえ、茶葉を買う予算自体が……」

「責めているのではない」

 ゼノヴィアスは首を振り、それでも茶を飲み続けた。

「余は、魔王失格かもしれぬな……」

 深い、深いため息が漏れる。

「部下に、民に、まともな飯も、茶も、何一つ与えてやれぬとは」

「陛下!」

 リリスの声が、急に熱を帯びた。

「貴方様は、誰よりも部下を想っていらっしゃる。戦場では鬼神のごとく戦われますが、その裏で、傷ついた兵士一人一人の名前を覚え、その家族の安否まで気にかけられる」

 サキュバスの瞳に、激しい忠誠の炎が宿った。

「そんな魔王が、他にいるでしょうか?」

「リリス……」

「だからこそ」

 彼女は一歩前に出た。

「だからこそ、わたくしは貴方様にお仕えするのです。たとえこの身が朽ち果てようとも、魂が消え去ろうとも」

 ゼノヴィアスは黙って、まずい茶をすすった。

 その苦さが、今は妙に心地よかった。

 長い沈黙の後――。

「陛下! 起死回生の策が、ございます」

 リリスは懐から、小さな魔力水晶を取り出した。水晶はゆらゆらと妖しい光を放っている。

「ほう?」

 ゼノヴィアスの眉が上がった。

「ただし……」

 リリスは一瞬、本当に一瞬だけ躊躇した。そして、覚悟を決めたように息を吸い込む。

「少々……いえ、かなり……いえ、死ぬほど陛下のプライドを傷つけるやもしれませぬが」

「プライドだと?」

 ゼノヴィアスは鼻で嗤った。

「部下を飢えさせ、茶すらまともに買えぬ余に、守るべきプライドなどあるものか」

 彼は立ち上がり、リリスを真っ直ぐ見据えた。

「何でもやってやる! 余の魂を売れというなら売ってやる! 言ってみよ!」

 リリスは深呼吸をすると覚悟を決めた。

「……人間界で今、『配信』というものが流行っております」

「配信?」

「はい。魔法の映像装置を使い、自分の姿や活動を多くの人に見せ、その見返りに金銭を得る……新しい形の見世物商売でございます」

 ゼノヴィアスは眉をひそめた。

「余に芸人の真似事をしろと? 手品でも披露しろというのか?」

「いえ、もっと……その……」

 リリスの顔が、見たことがないほど真っ赤になった。

「美少女に変身して」

「……は?」

「可愛く振る舞って」

「……」

「『キャピッ』とか言いながらダンジョンで魔物を倒して、投げ銭を稼いでいただきます」

「び、美少女……だと?」

 魔王の声が、まるで壊れた楽器のように裏返った。

「この余が? この、筋骨隆々、身長三メートル、角の生えた余が?」

「は、はい!」

 リリスは魔力水晶を高く掲げた。必死の形相だった。

「変身魔法陣を使えば、陛下も愛らしい美少女の姿に! 銀髪赤眼の可憐な剣士として! そして『リアル・ブイチューバー』として活動すれば、人間どもから大量の投げ銭が……!」

「ふざけるな!」

 ゼノヴィアスの咆哮と共に、杯が床に叩きつけられた。

 パリィィィン!

 破片が飛び散り、執務室の壁に突き刺さる。

「余は魔王ぞ! 大陸最強の……! 世界を恐怖で支配した……! そんな小娘になって媚を売るなど……」

 しかし、リリスは一歩も引かなかった。

「では、このまま魔王軍を解散なさいますか?」

「……え?」

 魔王の怒りが、瞬時に凍りついた。

「兵士たちを路頭に迷わせますか? その家族を飢えさせますか? 『史上最強だったが、金がなくて滅んだ間抜けな魔王』として、永遠に歴史に名を刻まれますか?」

 一言一言が、鋭い刃となってゼノヴィアスの心を切り裂いた。

「それとも……」

 リリスの声が、わずかに優しくなった。

「一時の恥を忍んで、部下たちを救いますか?」

 ゼノヴィアスは、ゆっくりと椅子に崩れ落ちた。

 巨大な体が震えている。肩を落とし、顔を両手で覆う。その姿は、まるで泣いているようにも見えた。

 長い、長い沈黙。

 窓の外では、腹を空かせた魔物たちの遠吠えが、悲しく響いていた。

「……どれほど」

 ついに、絞り出すような声が漏れた。

「どれほど稼げるのだ」

「上手くいけば月に十万ゴールドも、夢ではありません」

 リリスの瞳が、金色に輝いた。

「じゅ、十万!?」

 ゼノヴィアスの声が裏返った。その瞳もまた、黄金色に輝き始める。

「それだけあれば……兵士たちに温かい飯を……肉を……酒を……!」

「はい」

 リリスは頷いた。

「それどころか、新しい武具も、城の修繕も、魔王軍の完全復活も可能です! いかがなさいますか、陛下?」

「くっ……」

 ゼノヴィアスの顔が、苦悶に歪む。

 プライドと責任。
 威厳と義務。

 その間で、魔王の心は千々に乱れた。

 だが――。

 魔王の拳が、震えた。

「……分かった」

 ついに、運命の言葉が紡がれた。

「余が、その……美少女とやらに、なれば良いのだな」

「陛下……!」

 リリスの顔に、安堵と感動が広がった。

「ただし!」

 ゼノヴィアスは人差し指を突き立てた。最後の威厳を振り絞って。

「正体は絶対に秘密だ! 余が美少女になって『てへペろ』などしているところを誰かに知られたら……」

 魔王は顔を覆って、ガクガクと震えた。

「余は……余は自害する!」

「ご安心を」

 リリスは胸に手を当て、恭しく頭を下げた。

「このことはわたくしと陛下二人だけの秘密にございます! 絶対に、絶対に正体は漏らしません!」

 彼女の瞳に、鋼の決意が宿る。

「……。信じてるぞ……」


 こうして――。

 史上最強の魔王による、史上最も奇妙で、最も屈辱的で、最も崇高な金策が始まることになった。

 それが後に大陸全土を巻き込む前代未聞の騒動に発展することなどまだ、誰も知らない。



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次のエピソードへ進む 2. みんな~、マオだよ~!


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 魔王城、玉座の間――。
 かつて大陸全土を震撼させた恐怖の象徴は、今や哀れな廃墟と化していた。
 天井を這う蜘蛛の巣が、幾重にも垂れ下がって薄気味悪い影を作り出している。壁面に誇らしげに飾られていたはずの|魔獣《まじゅう》の剥製たちは、埃に埋もれて原型すら判別できない。玉座――かつては黒曜石で作られ、見る者を圧倒した魔王の座は、右の肘掛けが無残に砕け散り、左側だけが寂しく残っている有様だった。
 力なく明滅する魔力灯の下、魔王軍の幹部たちが肩を落として整列していた。誰もが継ぎ接ぎだらけの鎧を着込み、かつての栄光など微塵も感じさせない。
「こ、今月の……財務報告を……」
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「申し上げ……ます……」
 彼は震え声で続けた。
「軍事予算、残り……さ、三百ゴールド」
 その瞬間、玉座の間の空気が凍りついた。
 誰も息をしない。いや、できない。重苦しい沈黙が、まるで物理的な重さを持って全員の肩にのしかかる。
「……三百、だと?」
 玉座の影から、地の底から響くような声が漏れた。
 魔王ゼノヴィアス。
 漆黒の鎧に身を包んだ巨躯。額から生える禍々しい二本の角。そして、怒りとも絶望ともつかぬ光を宿す深紅の瞳。かつて世界を恐怖で支配した暴君が、そこにいた。
 いや――いたはずだった。
「は、はい……」ボーンズの声は、もはや悲鳴に近い。「兵士一人あたりの食費は……も、もはや計算すら……計算不能にございます……」
 ゾンビに涙腺はない。だが、誰もが見た。彼の魂が、確かに泣いているのを。
「陛下!」
 堪りかねたように、オーク部隊長が前に出た。凹んだ胸当てが、歩くたびに情けない音を立てる。
「もう限界です! 兵士たちの士気は地に落ちております!」
 オークの太い指が、震えながら拳を作る。
「昨日の夕飯をご存知ですか? 魔界スライムを煮詰めた後の……その『出がらし』です! 出がらしですぞ! もはや味も、栄養も、希望すらも残っておりません!」
 彼の声が裏返った。
「このままでは……脱走兵が……いえ、全員が飢え死にします!」
「なんだと!?」
 ゼノヴィアスが玉座から立ち上がった瞬間、圧倒的な魔力が爆発的に放出された。
 ゴゴゴゴゴ……!
 城全体が震え、幹部たちが恐怖で後ずさる。ああ、これだ。これこそが魔王の力。世界を震撼させた絶対的な暴力――。
「余の兵が……余の大切な兵士たちが、そこまで飢えているというのか!?」
 魔王の咆哮が、雷鳴のように轟いた。
「ならば余が行く! 今すぐ森へ出て、巨大ワイバーンでも、|古龍《こりゅう》でも狩ってくる! 皆に肉を! 腹いっぱい、血の滴る新鮮な肉を食わせてやる!」
「お待ちください、陛下」
 凛とした声が、嵐のような魔王の激情を切り裂いた。
 玉座の横の影から、一人の女性が優雅に歩み出る。
 艶やかな黒髪が、わずかな魔力灯の光を受けて妖しく輝き、切れ長の赤い瞳は理知と妖艶さを同時に宿していた。背中から生えた小さな蝙蝠の翼、しなやかに揺れる尻尾――彼女こそ、魔王の秘書官にして最後の理性の砦、サキュバスのリリスだった。
「確かに、陛下がワイバーンを狩れば肉は手に入るでしょう」
「しかし……」
 彼女の声は、氷のように冷たく、そして残酷なまでに正確だった。
「その巨大な獲物を解体する職人への賃金はどうなさいます? 少なくとも三千ゴールド……。調理する料理人への報酬は?」
 リリスは魔王の顔をのぞきこむ。
「我々は、陛下の善意によって完全に破産します」
「……」
 ゼノヴィアスは、まるで巨大な岩でも背負わされたかのように、ゆっくりと玉座に沈み込んだ。反論の言葉など、一つも浮かばない。
「だが……だが余は……」
 魔王の声が震えた。五百年の生涯で初めて、彼は自分の無力を噛みしめていた。
「余は……余は……!」
 言葉が続かない。代わりに、獣のような咆哮が喉の奥から漏れた。
「うおおおおおおお!」
 拳が振り下ろされ、玉座の左肘掛けが粉々に砕け散った。
 パキィィィン!
 木片が飛び散り、幹部たちが慌てて顔を覆う。
「ああ……また……」
 リリスが深い、深いため息をついた。美しい顔に、諦めとも慈愛ともつかない表情が浮かぶ。
「陛下、玉座の修理費がまた三百ゴールド……あ、ちょうど残金と同じですね」
「わ、分かっておる!」
 ゼノヴィアスは頭を抱えた。巨大な手が、自分の角を掴んでギリギリと音を立てる。
「分かっておるが……分かっておるのだが……!」
 最強の魔王。
 世界の支配者。
 恐怖の化身。
 その全ての称号が、「金欠」という二文字の前には、まるで意味を成さなかった。
   ◇
 その夜魔王執務室――――。
 色褪せたタペストリーが、まるで過去の栄光を悼むように壁に垂れ下がっている。かつては宝石がちりばめられていた燭台も、今は錆びついた鉄の塊と化していた。
 ゼノヴィアスは一人、割れた窓から外を眺めていた。
 眼下に広がる魔王領の城下町。かつては魔族たちの笑い声と、商人たちの喧騒で賑わっていた通りも、今は死んだように静まり返っている。家々の窓から漏れる灯りもまばらで、まるでゴーストタウンである。
 人間の王都は、まるで地上に降りた星々のように煌めいているというのに我が魔王領はもはや滅亡寸前だった。停戦協定など無視して攻め入って略奪でもすればいいのだが、餓死寸前の魔王軍にはその力も残っていなかった。
 コンコン!
「失礼します!」
 重い扉が開きリリスが粗末な木の盆を手に入ってくる。
 その上には、茶と呼ぶのも|憚《はばか》られる茶色い液体が入った、欠けた杯が載っていた。
「お茶を……」リリスは苦笑した。「いえ、お茶のようなものを、お持ちしました」
「すまぬな」
 ゼノヴィアスは振り返らなかった。ただ、低い声だけが響く。
「なぜだ、リリス」
 ゼノヴィアスの肩が、わずかに震えた。
「余は力で敵を蹂躙した。恐怖で大陸を支配した。魔王軍の名を聞けば、赤子も泣き止んだ」
 彼の拳が、ギリと音を立てて握られる。
「だが、停戦から五十年……人間どもは廃墟から立ち上がり、今やあの煌びやかさだ。それに引き換え、我らは……」
 振り返ったゼノヴィアスの顔に、いつもの威厳はなかった。
 そこにいたのは、疲れ果て、打ちのめされた、一人の敗北者だった。
「陛下は戦の天才ですが……」
 リリスは優しく微笑みながら、まずい茶を差し出した。
「経済の天才では、ございませんでしたから」
「……そうか」
 ゼノヴィアスは自嘲の笑みを浮かべ、茶を受け取った。一口含んで、即座に顔をしかめる。
「まずいな……いや、まずいを通り越して、これは毒ではないか?」
「申し訳ございません。良い茶葉を買う予算が……いえ、茶葉を買う予算自体が……」
「責めているのではない」
 ゼノヴィアスは首を振り、それでも茶を飲み続けた。
「余は、魔王失格かもしれぬな……」
 深い、深いため息が漏れる。
「部下に、民に、まともな飯も、茶も、何一つ与えてやれぬとは」
「陛下!」
 リリスの声が、急に熱を帯びた。
「貴方様は、誰よりも部下を想っていらっしゃる。戦場では鬼神のごとく戦われますが、その裏で、傷ついた兵士一人一人の名前を覚え、その家族の安否まで気にかけられる」
 サキュバスの瞳に、激しい忠誠の炎が宿った。
「そんな魔王が、他にいるでしょうか?」
「リリス……」
「だからこそ」
 彼女は一歩前に出た。
「だからこそ、わたくしは貴方様にお仕えするのです。たとえこの身が朽ち果てようとも、魂が消え去ろうとも」
 ゼノヴィアスは黙って、まずい茶をすすった。
 その苦さが、今は妙に心地よかった。
 長い沈黙の後――。
「陛下! 起死回生の策が、ございます」
 リリスは懐から、小さな魔力水晶を取り出した。水晶はゆらゆらと妖しい光を放っている。
「ほう?」
 ゼノヴィアスの眉が上がった。
「ただし……」
 リリスは一瞬、本当に一瞬だけ躊躇した。そして、覚悟を決めたように息を吸い込む。
「少々……いえ、かなり……いえ、死ぬほど陛下のプライドを傷つけるやもしれませぬが」
「プライドだと?」
 ゼノヴィアスは鼻で嗤った。
「部下を飢えさせ、茶すらまともに買えぬ余に、守るべきプライドなどあるものか」
 彼は立ち上がり、リリスを真っ直ぐ見据えた。
「何でもやってやる! 余の魂を売れというなら売ってやる! 言ってみよ!」
 リリスは深呼吸をすると覚悟を決めた。
「……人間界で今、『配信』というものが流行っております」
「配信?」
「はい。魔法の映像装置を使い、自分の姿や活動を多くの人に見せ、その見返りに金銭を得る……新しい形の見世物商売でございます」
 ゼノヴィアスは眉をひそめた。
「余に芸人の真似事をしろと? 手品でも披露しろというのか?」
「いえ、もっと……その……」
 リリスの顔が、見たことがないほど真っ赤になった。
「美少女に変身して」
「……は?」
「可愛く振る舞って」
「……」
「『キャピッ』とか言いながらダンジョンで魔物を倒して、投げ銭を稼いでいただきます」
「び、美少女……だと?」
 魔王の声が、まるで壊れた楽器のように裏返った。
「この余が? この、筋骨隆々、身長三メートル、角の生えた余が?」
「は、はい!」
 リリスは魔力水晶を高く掲げた。必死の形相だった。
「変身魔法陣を使えば、陛下も愛らしい美少女の姿に! 銀髪赤眼の可憐な剣士として! そして『リアル・ブイチューバー』として活動すれば、人間どもから大量の投げ銭が……!」
「ふざけるな!」
 ゼノヴィアスの咆哮と共に、杯が床に叩きつけられた。
 パリィィィン!
 破片が飛び散り、執務室の壁に突き刺さる。
「余は魔王ぞ! 大陸最強の……! 世界を恐怖で支配した……! そんな小娘になって媚を売るなど……」
 しかし、リリスは一歩も引かなかった。
「では、このまま魔王軍を解散なさいますか?」
「……え?」
 魔王の怒りが、瞬時に凍りついた。
「兵士たちを路頭に迷わせますか? その家族を飢えさせますか? 『史上最強だったが、金がなくて滅んだ間抜けな魔王』として、永遠に歴史に名を刻まれますか?」
 一言一言が、鋭い刃となってゼノヴィアスの心を切り裂いた。
「それとも……」
 リリスの声が、わずかに優しくなった。
「一時の恥を忍んで、部下たちを救いますか?」
 ゼノヴィアスは、ゆっくりと椅子に崩れ落ちた。
 巨大な体が震えている。肩を落とし、顔を両手で覆う。その姿は、まるで泣いているようにも見えた。
 長い、長い沈黙。
 窓の外では、腹を空かせた魔物たちの遠吠えが、悲しく響いていた。
「……どれほど」
 ついに、絞り出すような声が漏れた。
「どれほど稼げるのだ」
「上手くいけば月に十万ゴールドも、夢ではありません」
 リリスの瞳が、金色に輝いた。
「じゅ、十万!?」
 ゼノヴィアスの声が裏返った。その瞳もまた、黄金色に輝き始める。
「それだけあれば……兵士たちに温かい飯を……肉を……酒を……!」
「はい」
 リリスは頷いた。
「それどころか、新しい武具も、城の修繕も、魔王軍の完全復活も可能です! いかがなさいますか、陛下?」
「くっ……」
 ゼノヴィアスの顔が、苦悶に歪む。
 プライドと責任。
 威厳と義務。
 その間で、魔王の心は千々に乱れた。
 だが――。
 魔王の拳が、震えた。
「……分かった」
 ついに、運命の言葉が紡がれた。
「余が、その……美少女とやらに、なれば良いのだな」
「陛下……!」
 リリスの顔に、安堵と感動が広がった。
「ただし!」
 ゼノヴィアスは人差し指を突き立てた。最後の威厳を振り絞って。
「正体は絶対に秘密だ! 余が美少女になって『てへペろ』などしているところを誰かに知られたら……」
 魔王は顔を覆って、ガクガクと震えた。
「余は……余は自害する!」
「ご安心を」
 リリスは胸に手を当て、恭しく頭を下げた。
「このことはわたくしと陛下二人だけの秘密にございます! 絶対に、絶対に正体は漏らしません!」
 彼女の瞳に、鋼の決意が宿る。
「……。信じてるぞ……」
 こうして――。
 史上最強の魔王による、史上最も奇妙で、最も屈辱的で、最も崇高な金策が始まることになった。
 それが後に大陸全土を巻き込む前代未聞の騒動に発展することなどまだ、誰も知らない。