検番の勝手口には鍵がかけられていた。藤城皐月は裏路地から表通りに出て、玄関の紅殻格子の引き戸を開けた。皐月が求めていた冷気がここにあった。
「お母さんいる?」
お母さんとは検番を細々と守り続けてきた老芸妓の京子のことだ。芸妓がみんな京子のことをお母さんと呼ぶから、皐月も真似をするようになった。
「あら、皐月じゃないか。久しぶりだねえ。ずいぶん黒くなっちゃって。それよりあんた、また背が伸びたんじゃない?」
矢継ぎ早に話しかけてくる京子に皐月はホッとした。京子は今も昔も皐月に対する態度が実の祖母よりも温かい。
「検番は涼しいね。何か飲み物ってある?」
「なんだい、涼を取りに来たのかい。最近顔を出さないからお子様向けの飲み物なんて置いちゃいないよ。緑茶かコーヒーならあるけどさ」
「俺、コーヒーがいい。ブラック」
「あんたコーヒーなんて飲むようになったのかい。へぇ〜」
「この前、真理に教えてもらったんだ。あいつ、大人ぶっちゃって面白いよ」
「ちょっと待ってて。今持ってくるから」
応接間の黒光りする古びたソファーに腰掛け、スマホを取り出して鉄道系のインスタをチェックした。鉄道写真を撮ったり見たりするのが皐月の趣味だ。
「はい、冷コー」
「玲子さんがどうかしたの?」
玲子は京子の娘で、今は芸妓をしていない。子どもの頃、皐月や真理はよく玲子に面倒を見てもらっていた。
「玲子じゃなくて冷たいコーヒー。略して冷コー」
「ダセ〜っ!」
喫茶パピヨンで飲んだコーヒーはホットだったが、これはペットボトルのアイスコーヒーだ。思ったよりも飲みやすいが、飲んでも飲んでも喉の渇きが収まらない。
「やっぱりお茶ちょうだい」
「面倒だからあんたが自分で淹れてきなよ」
「何かお菓子とかある?」
「煎餅とか御欠ならあるよ」
「なんだ、婆菓子しかないんだ」
「ここにはババアしかいないからね」
皐月は勝手知ったる台所へお茶とお菓子を取りに行った。どこに何があるかはわかっている。
「ねえ、お母さん。今日うちに来る頼子さんのこと聞きたいんだけど……」
「なんだい、百合から聞いていなかったのかい?」
「何となく聞きづらくて……。頼子さんってママの同級生なんだよね。そんな齢の人が今から芸妓なんてできるの?」
「さすがに一から芸を覚えていくっていうわけじゃないんだけどね。彼女は温泉旅館で仲居を長くやってきたから、接客ができるのよ。あまり機会はないかもしれないけれど、忙しい時に手伝ってもらおうと思ってるの」
「そうなんだ」
母は今まで住み込みの弟子に住む場所を無償で提供していた。だから頼子にも同じことをするだろう。だが頼子には皐月の食事の世話もしてもらうつもりでいるらしい。これは無償ではないはずだ。
皐月には小百合と頼子の関係がまだよく理解できていない。子連れの大人の女の友だち同士が一緒に暮らすというパターンを皐月は聞いたことがなかった。これが再婚する大人の男女ならアニメで見たことがある話だ。
応接間に戻ると、京子が皐月のスマホの鉄道写真を見ていた。
「電車なんか見て、面白いのかい?」
「面白いよ。それよりさ、高校生の女の子も頼子さんと一緒に家に来るんだけど、その子って芸妓になるの?」
「ああ、祐希ちゃんのことね。特にそういった話は聞いていないよ。まあこんな田舎だし、高校卒業してすぐに飛び込んでくるような世界でもないからね。今は芸妓だけで生活できるような時代でもないし、うちの子たちだって兼業の子がほとんどだ。ここじゃ芸妓一本でやっているほうが珍しいよ」
皐月の母の小百合が芸妓だけでやっていけているのは株や為替などの投資で利益を上げているからだ。真理の母の凛子は恋人からの援助があるらしく、真理はそのことを嫌って勉強にのめり込んでいる。お金に絡む話がリアルに迫ってきて、皐月は嫌な気持ちになってきた。
「後で百合が頼子を連れてここに来るけど、あんた、それまで検番にいるかい?」
「ううん、ちょっと休んだらすぐに帰る。ところで今日は芸妓さん、誰も来ていないの?」
「明日美が稽古場にいるよ」
「ホント!? じゃあ、ちょっと顔出してくる」
明日美は豊川芸妓組合で一番人気の芸妓だ。若くて美しい明日美は毎日のようにお座敷に呼ばれる売れっ子で、名古屋まで出張することもある。
明日美は最近、お座敷の数を減らしているという。大きな病気で入院して、今は病み上がりだという話を母から聞いていた。だが皐月が明日美の病気の詳細を聞いても、けっして母は教えてはくれなかった。