師匠は、節目の多い白い天井をぼんやりと見つめていた。
痛みはない。
苦しくもない。
力も入らない。
耳障りだと思っていた鼻に繋がれたチューブから酸素を送る機械の低く唸るような音ももう気にならない。
ただ、もの凄く眠かった。
頭の奥の奥を温めるように心地よい眠気が優しく撫でてきて何度も意識を失いそうになる。
しかし、寝てしまったらもう二度と起きることはないのだろうと漠然と感じた。
師匠は、視線を枕元に向ける。
女性が立っていた。
五十過ぎくらいの、栗毛に白髪の混じった可愛らしい顔立ちをした小柄な女性が自分を見て笑っている。
その手には溶けて燃え尽きかけた蝋燭が直に握られていた。
「死神ってのは……悪趣味なもんだな」
師匠は、力なく笑う。
よりにも寄ってその姿で来るだなんてよっぽど自分を苦しめるのが好きだと見える。
これは彼女じゃない。
そう分かっていても師匠は聞いてしまう。
「あいつもそっちにいるのかい?」
師匠は、掠れた声で聞く。
しかし、女性は答えない。
ただ笑ってるだけだ。
「悪いけどもう少し連れてくのを待ってくれねえか。もう少しで来るはずなんだ」
もう悔いなんてないが、最後にどうしても会いたい。
会って……。
「だから、それまで待ってくれ」
師匠が力なく懇願すると、女性の姿は靄のように消え去り、酸素を送る機械の音だけが響いた。
師匠は、弱々しく息を吐く。
再び眠気が襲ってくる。
頭の奥の奥を優しく擽る。
寝ちゃダメだ。
寝たら二度と目覚められない。
せっかく待ってくれてるんだ、
せめて……せめてあいつが来るまでは……。
ニャァ。
静寂の海を跳ねる魚のように耳に飛び込んできた声に力を失ったはずの師匠の身体が反応し、首が声の方を向く。
黄色く濁った師匠の目と翡翠のように輝く目が重なる。
「茶々丸……」
師匠は、力なく呟く。
そこにいたのはピンクの着物に羽織りを纏い、黒子衣装を纏った人物の膝の上に乗った茶々丸であった。
青白くなった師匠の顔に火が灯る。
木偶の坊になった身体に血が巡り、掛け布団を剥いで今すぐにでも駆け寄りたい、そんな衝動に駆られる。
茶々丸……。
茶々丸……。
師匠は、胸の中で何度も愛おしい相棒の名を呼ぶ。
しかし、声には出さない。
ぐっと喉を鳴らし、黄色く濁った目に全ての力を集中し、茶々丸を見据える。
「間に合ったようだな」
師匠は、精一杯の強がりを口元に込めて笑う。
「お待たせして申し訳ありません」
茶々丸を膝に乗せた黒子は、小さく頭を下げると顔に垂らした黒幕を上げる。三白眼に表情の乏しい看取り人の顔が現れる。
「まったくだぜ」
師匠は、喉を鳴らして笑う。
「寝たままでもいいか?もう起きれそうにないんだ」
「はいっ」
看取り人は、小さく頷く。
「それじゃあ早速始めてくれ」
師匠は、そう言って視線を枕元に向ける。
「いつ蝋燭の火を消されてもおかしくないんでな」
師匠の言葉に看取り人は答えず黒幕を顔に掛ける。
茶々丸の翡翠の目が細まる。
空気が変わる。
死の匂いと痛いくらいの虚無の漂った空間が沸騰するように泡立ち、高揚する。
この空気を師匠は知っていた。
落語家に取っての戦場。
寄席の空気だ。
師匠は、唾気のない喉を鳴らす。
「にゃんにゃん亭茶々丸にございますにゃ」
それは看取り人から発せられた声のはずなのにまるで茶々丸が発したように師匠には聞こえた。
「今日は私の高座にお集まりくださいましてありがとうですにゃ」
茶々丸は、小さく舌舐めずりする。
まるで自らが話してくかのように。
「それではお聞きくださいにゃ。看取り落語」