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前編  兆しの音色

ー/ー



 春の訪れと共に、(あずさ)の世界は無音の闇に包まれた。

 彼女の日々は、ピアノの鍵盤を通じて奏でられる旋律で彩られていた。
 音楽は彼女にとってただの趣味ではなく、生きる喜びそのものだった。
 
 しかし、あの日、帰り道の交通事故がすべてを変えた。

 病院のベッドで目覚めた梓は、耳鳴りのような静寂に囲まれていた。
 耳を澄ませても、何も聞こえない。

 医師の口の動きから、彼女は自分が聴覚を失ったことを悟った。


 梓の心は恐怖と混乱で満たされた。
 彼女の目からはとめどなく涙が流れ落ちる。

 音楽という喜びを失った彼女にとって、世界は色を失い、意味をなくしたようだった。

「どうして…?  私の音楽は、私の人生は…?」

 彼女の心は絶望で打ちひしがれ、未来への希望さえも見いだせなかった。
 音楽なしの人生など、彼女にとっては考えられなかった。


 梓は、抜け殻となって、ただ日々を過ごしていた。
 どうでもよかった、世界が滅びようが今の彼女には関係なかった。ただ、生きるだけ、もう限界だった。

 そんな彼女のもとに、ある日突然海斗(かいと)が現れた。

 彼は病院の別の病室にいた青年で、盲目でありながらピアノの才能を持ち、ピアノと共に人生を謳歌(おうか)していた。
 梓はこんな世界があったことに感動と驚きを覚えた。
 音は聞こえないが、海斗が弾いている姿に心が震えた。

 梓と海斗が親しくなるのにそう時間はかからなかった。

 梓は海斗の言った言葉が忘れられない。

「音は、耳だけで感じるものじゃないんだ。
 心で、体で感じるものなんだよ」

 聞こえなくても、彼の声は温かく彼女の心に静かに響き、沁みわたっていく。
 彼の言葉には不思議な力がある、そんな気がした。

「僕は生まれつき目が見えないんだ。でも、ピアノを弾いているとそのことも忘れられる。
 僕たちにはできないことも多いけど、その分、僕たちにしかできないことがある」

 海斗がピアノを弾く、その横で梓は海斗を見つめる。
 彼が笑いかけると、梓の世界に光が差し、世界は明るいもののように思えた。


 療養生活が続く中、梓と海斗の間には確かな絆が生まれていた。

 海斗は盲目でありながら、ピアノの鍵盤を自在に操ることができ、彼が奏でる旋律は聴く人の心に響く不思議な力があった。

 海斗は梓に、触覚や振動を通じて音楽を感じる方法を教えた。
 最初は戸惑いながらも、梓はピアノの振動を手のひらで感じ、その響きを体全体で受け止めることで、彼女の新しい音楽の世界を作っていった。

「音楽は、耳だけのものじゃないんだね」と梓が笑う。

 梓の声からは期待と希望が滲み出ていた。
 海斗はそんな梓の楽しそうな声に、嬉しそうに微笑む。

 海斗は梓の才能と可能性を信じていた。

「君には才能がある。あきらめなければ、必ず道はある」

 海斗の言葉に、力強く頷く梓だった。


 梓は海斗と練習に励んだ。
 彼女はピアノの前に座り、手のひらで鍵盤の振動を感じながら、自分だけの旋律を奏で始めた。

 その音色は、かつてのものとは違っていたが、とても繊細で柔らかく、人の心に訴えかけるようなメロディーだった。

 梓が新しい音楽の道を歩み始めたことは、周囲の人々にとって理解しがたいものだった。

 音楽を目指す者にとって、聴覚を失うことがどれほど大変なことでリスクを伴うか。
 彼女のクラスメートや先生たちは、彼女が聴覚を失ったことで、音楽は諦めるべきだと考えていた。

 しかし、梓は海斗の助けを借りながら、あきらめる様子を一切見せなかった。


 ある日の放課後、誰もいないときを狙って梓は音楽室で一人ピアノを弾いた。
 彼女は鍵盤の振動を感じ取りながら、心に浮かぶメロディを奏でようとした。しかし、その音は彼女の意図したものとは異なってしまう。

 その時、偶然現場に居合わせた生徒がクスクスと笑っているのが見えた。

「なんであんなに頑張ってるの? 聞こえないんだから無理でしょ」

 聞こえないが、彼女にはその口の動きや態度から、何を言っているのかだいたいわかる。

 梓の心は痛かった。
 彼女は涙をこらえながらピアノから離れ、走り去った。

 また、ピアノを弾くことなんてできるのだろうか。
 梓は自分の弱い心に負けてしまいそうだった。
 再びあの頃のように戻ってしまいそうな気がして、それを振り払うかのように必死に走った。

 その夜、海斗は梓にこんな言葉をかけた。

「他人が何を言おうと、君の音楽は君のものだ。
 振動を感じ、心で奏でる音楽は、誰にも奪えない。君の音楽を信じて」

 海斗は優しく梓の手を握る。

「……君を信じて、僕は君を信じてる」

 海斗に言われると、なんだか不思議と受け入れてしまう。
 彼の言葉はいつも梓の心を救ってくれる。

「海斗、ありがとう。私、海斗のことは信じられる……だから私の音楽も、私のことも信じる」

 彼女は再びピアノに向かった。

 海斗は彼女の傍で、静かに支え続けた。梓がピアノを弾くたび、彼女の手に触れ、振動を共に感じた。

 次第に梓は、他人の言葉に惑わされず、自分の音楽を信じる強さを持つようになっていく。

 彼女の演奏は日に日に成長し、彼女独自のスタイルを築き上げていくことになる。


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次のエピソードへ進む 後編  希望の音色


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 春の訪れと共に、|梓《あずさ》の世界は無音の闇に包まれた。
 彼女の日々は、ピアノの鍵盤を通じて奏でられる旋律で彩られていた。
 音楽は彼女にとってただの趣味ではなく、生きる喜びそのものだった。
 しかし、あの日、帰り道の交通事故がすべてを変えた。
 病院のベッドで目覚めた梓は、耳鳴りのような静寂に囲まれていた。
 耳を澄ませても、何も聞こえない。
 医師の口の動きから、彼女は自分が聴覚を失ったことを悟った。
 梓の心は恐怖と混乱で満たされた。
 彼女の目からはとめどなく涙が流れ落ちる。
 音楽という喜びを失った彼女にとって、世界は色を失い、意味をなくしたようだった。
「どうして…?  私の音楽は、私の人生は…?」
 彼女の心は絶望で打ちひしがれ、未来への希望さえも見いだせなかった。
 音楽なしの人生など、彼女にとっては考えられなかった。
 梓は、抜け殻となって、ただ日々を過ごしていた。
 どうでもよかった、世界が滅びようが今の彼女には関係なかった。ただ、生きるだけ、もう限界だった。
 そんな彼女のもとに、ある日突然|海斗《かいと》が現れた。
 彼は病院の別の病室にいた青年で、盲目でありながらピアノの才能を持ち、ピアノと共に人生を|謳歌《おうか》していた。
 梓はこんな世界があったことに感動と驚きを覚えた。
 音は聞こえないが、海斗が弾いている姿に心が震えた。
 梓と海斗が親しくなるのにそう時間はかからなかった。
 梓は海斗の言った言葉が忘れられない。
「音は、耳だけで感じるものじゃないんだ。
 心で、体で感じるものなんだよ」
 聞こえなくても、彼の声は温かく彼女の心に静かに響き、沁みわたっていく。
 彼の言葉には不思議な力がある、そんな気がした。
「僕は生まれつき目が見えないんだ。でも、ピアノを弾いているとそのことも忘れられる。
 僕たちにはできないことも多いけど、その分、僕たちにしかできないことがある」
 海斗がピアノを弾く、その横で梓は海斗を見つめる。
 彼が笑いかけると、梓の世界に光が差し、世界は明るいもののように思えた。
 療養生活が続く中、梓と海斗の間には確かな絆が生まれていた。
 海斗は盲目でありながら、ピアノの鍵盤を自在に操ることができ、彼が奏でる旋律は聴く人の心に響く不思議な力があった。
 海斗は梓に、触覚や振動を通じて音楽を感じる方法を教えた。
 最初は戸惑いながらも、梓はピアノの振動を手のひらで感じ、その響きを体全体で受け止めることで、彼女の新しい音楽の世界を作っていった。
「音楽は、耳だけのものじゃないんだね」と梓が笑う。
 梓の声からは期待と希望が滲み出ていた。
 海斗はそんな梓の楽しそうな声に、嬉しそうに微笑む。
 海斗は梓の才能と可能性を信じていた。
「君には才能がある。あきらめなければ、必ず道はある」
 海斗の言葉に、力強く頷く梓だった。
 梓は海斗と練習に励んだ。
 彼女はピアノの前に座り、手のひらで鍵盤の振動を感じながら、自分だけの旋律を奏で始めた。
 その音色は、かつてのものとは違っていたが、とても繊細で柔らかく、人の心に訴えかけるようなメロディーだった。
 梓が新しい音楽の道を歩み始めたことは、周囲の人々にとって理解しがたいものだった。
 音楽を目指す者にとって、聴覚を失うことがどれほど大変なことでリスクを伴うか。
 彼女のクラスメートや先生たちは、彼女が聴覚を失ったことで、音楽は諦めるべきだと考えていた。
 しかし、梓は海斗の助けを借りながら、あきらめる様子を一切見せなかった。
 ある日の放課後、誰もいないときを狙って梓は音楽室で一人ピアノを弾いた。
 彼女は鍵盤の振動を感じ取りながら、心に浮かぶメロディを奏でようとした。しかし、その音は彼女の意図したものとは異なってしまう。
 その時、偶然現場に居合わせた生徒がクスクスと笑っているのが見えた。
「なんであんなに頑張ってるの? 聞こえないんだから無理でしょ」
 聞こえないが、彼女にはその口の動きや態度から、何を言っているのかだいたいわかる。
 梓の心は痛かった。
 彼女は涙をこらえながらピアノから離れ、走り去った。
 また、ピアノを弾くことなんてできるのだろうか。
 梓は自分の弱い心に負けてしまいそうだった。
 再びあの頃のように戻ってしまいそうな気がして、それを振り払うかのように必死に走った。
 その夜、海斗は梓にこんな言葉をかけた。
「他人が何を言おうと、君の音楽は君のものだ。
 振動を感じ、心で奏でる音楽は、誰にも奪えない。君の音楽を信じて」
 海斗は優しく梓の手を握る。
「……君を信じて、僕は君を信じてる」
 海斗に言われると、なんだか不思議と受け入れてしまう。
 彼の言葉はいつも梓の心を救ってくれる。
「海斗、ありがとう。私、海斗のことは信じられる……だから私の音楽も、私のことも信じる」
 彼女は再びピアノに向かった。
 海斗は彼女の傍で、静かに支え続けた。梓がピアノを弾くたび、彼女の手に触れ、振動を共に感じた。
 次第に梓は、他人の言葉に惑わされず、自分の音楽を信じる強さを持つようになっていく。
 彼女の演奏は日に日に成長し、彼女独自のスタイルを築き上げていくことになる。