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先輩(6)

ー/ー



 先輩が物心ついた時にはもう母親と二人暮らしだったと言う。
 父親のことは知らない。
 母親からも叔母さんからも聞いたことがないと言う。と、言うよりも叔母さんは先輩を保護するまで先輩がこの世に存在していることすら知らなかったのだから無理はない。
 先輩と母親は市外からかなり離れた地方都市のアパートを借りてひっそりと暮らしていた。
 母親は幾つかのパートを掛け持ちして生計を立て、その間、先輩は母親が用意しておいたハンバーガーや飲み物を飲んでアパートに1人でいたと言う。

「1人?」
 看取り人は、眉を顰める。
「何歳の時の話しですか?」
 看取り人の質問に先輩は首を傾げる。
「分からない。物心ついた時にはもうそうだったから・・」
 看取り人の脳裏に育児放棄(ネグレクト)と言う言葉が浮かぶ。
「ネグレクトって思ったでしょう?」
 看取り人の脳裏を読み取ったように先輩は言う。
 看取り人の三白眼を見開く。
 それを見て先輩は苦笑する。
「実際そうだったと思うよ。私はご飯を作ってもらった記憶もなければ着替えを手伝ってもらった記憶もお風呂も一緒に入った記憶もないもの。部屋はもの凄く汚かったし・・」
 先輩は、きゅっと水筒を握りしめる。
「それでもね。私はママのことが好きだった。帰ってきてくれると嬉しかったし、家に戻ったその日だけは温かいご飯・・お惣菜とかだけど食べさせてくれたし、何より・・優しかった」
 そう言って先輩は悲しげに笑う。
 家に戻ってきた母親はとにかく優しかったと言う。
 甘過ぎると言ってもいい。
 頭を撫でてくれたし、優しく抱きしめてくれて、愛おしく名前を呼んでくれた。
 当たり前。
 親と子ならとんでもなく当たり前のことだが、先輩にとってはその僅かな時間が心から幸せだった。
 そんな生活が何年続いたか分からない。
 保護されたのが8歳なのだから8年なのだろうがまともに学校に行っておらず、テレビで基礎教育を学んだきた先輩には時間感覚がなかったそうだ。
 それとこれは後から知ったそうだが、先輩は出生届が出されていなかった。
 つまりこの世界に存在しない子どもだったのだ。
 しかし、そんなこと当時の先輩が知るわけがない。
 先輩は、母親が用意したハンバーガーや菓子パンを食し、ペットボトルや水道水を飲みながら母親が帰ってくるのを待っていた。
 そんな生活が終わりを迎えたのは突然だった。
「ママが・・私を殺そうとしたの」

 それは突然行われた。
 母親は何の連絡もなく帰ってきた。
 住んでたアパートに固定電話はなく、当然、携帯なんて持っていないから連絡なんてないのは当然なのだがその時の先輩は母親が帰ってきたのを突然にと思った。
 今,思うと本能的な何かが働いていたのかもしれないと先輩は言う。
 それでも、そんな危機察知本能を押し退けるくらい母親が帰ってきたことは先輩にとっては嬉しいことだった。
 先輩は、栄養の行き渡っていない痩せ細った身体で立ち上がり、満面の笑みを浮かべて母親に駆け寄った。
 その顔に今まで感じたことのない痛みが走った。
 左側の視界が真っ暗になる。
 変色した畳に赤黒い水が落ちる。
 頭がクラクラして目の前が揺れる。
 先輩は、朦朧とする頭で何が起きたのかを把握しようとした。が、そんなことは出来なかった。
 お腹に衝撃が走る。
 何かがめり込み、中で何かが折れる音が聞こえる。
 口から赤い液体と食べたばかりのハンバーガーが出てくる。
 先輩は、そのまま自分が吐瀉したものの上にうつ伏せに倒れる。
 背中に痛みが走る。
 何度も何度も走る。
 顔を上げると醜く歪み、テレビで見た鬼のように目を怒らせた母親の顔が見えた。
「マ・・・マ・・・」
 先輩は、母親に手を伸ばす。
 その手を母親は払い除け、踏み潰す。
 激しい痛みと何かが砕ける音が頭の中に響く。
 痛くて苦しくて声が出せない。
 それでも痛みと衝撃はいつまでも襲いくる。
 母親は、憎しみのこもった目で先輩を睨む。
「恨め・・、恨め!」
 母親は、うなされるように、呪うように言葉を吐く。
「マ・・・マ・・」
 先輩は、痛むのない手を母親に伸ばし・・意識が途絶えた。
 どのくらい気を失っていたのか分からない。
 目を覚ますと知らないおばさんが先輩の手を握って大声で泣いていた。
「ごめんなさい・・気づくのが遅くてごめんなさい・・」
 おばさんは、必死に先輩に向かって謝っていた。
 身体中が痛い。
 頭がぼんやりする。
 目がよく見えない。
 そんな事を思いながらも先輩は辛うじて見える右目で周りを見回すと青い服を着た男達に身体を押さえつけられた母親の姿があった。
 母親を押さえているのは確かテレビで見たお巡りさんと言う人たちではなかったか?
 後から聞いた話しだが、先輩の手を握って泣いていたおばさんはアパートの大家さん、先輩の部屋の隣の住民から「隣で子どもの悲鳴が聞こえる」と連絡があり、慌てて駆けつけ、部屋を開けると先輩している母親を見た。
 そして直ぐ様、警察に通報し、現在に至る。
 お巡りさんに押さえつけられた母親はそれでも暴れ、錯乱し、先輩を睨む。
 そして呪禁のように言葉を吐く。
「恨め・・恨め・・!」

「それから私は救急車で病院に運ばれて治療を受けたの」
 そこからの展開は実に早かった。
 警察が区役所を通して先輩の情報を得ようとしたが母親の戸籍に先輩の名前はなく、私生児で分かるとすぐさま、児童相談所と相談、保護した。その後、母親の唯一の血縁である妹、つまり叔母さんに連絡がいった。
 叔母さんは、ずっと行方不明であった姉に子どもがいたことに驚き、さらにその子を虐待していたことが分かり、ショックを超えて怒りが溢れたと言う。
 そして迷うことなく先輩を引き取り、戸籍の取得と特別養子縁組をしたのだと言う。
「叔母さんね。当時、婚約者がいたらしいんだけど、私を引き取るってなったら破棄されちゃったんだって」
 先輩は、ぎゅっと唇を結ぶ。
「それでも叔母さんは私の事を凄く愛してくれたの。大好きって抱きしめてくれたの」
「・・・分かります」
 看取り人は、小さな声で言う。
 先輩に対する叔母さんの愛情が本物であることは疑う余地もない。
「叔母さんはたくさんの愛を注いでくれた。あの出来事を忘れさせようと仕事が忙しいのに懸命にかまってくれた。でも、それでも思い出しちゃうの。ママのことを・・」
 あの時の母親の顔。
 鬼のような形相で自分を殴り、蹴る母親の姿。
 そして呪いのように呟くあの言葉。
 恨め・・・恨め。
「あれはきっと私が生まれたことを恨めって意味だと思うの。私が生まれてきたことでママが不幸になったんだって」
「そんなこと・・・」
 看取り人は言葉に出そうとして・・飲み込む。
 先輩の言葉を否定するだけの材料を今の看取り人は持ってなかったから。
 先輩は、下唇を千切れるのではないかと思えるほどに噛み締める。
「だから、私はママと話したいの。ママの話しを聞いて許しを得たいの」
「許し?」
 先輩は、頷く。
「もしママが・・今でも私のことを恨んでいて・・それが未練として残って私の元に現れたら・・そう思ったら怖いの。怖くて眠れないの。いつもいつもそのことばかり考えちゃうの」
 看取り人の三白眼が揺れる。
「だから私はママの死に立ち会いたいの。話を聞いて、許してもらいたいの。死んでも私の前に出てこないで下さいってお願いしたいの。でも・・怖い。1人でママの前に行くのが怖い・・」
 先輩の手が看取り人の制服の袖を握る。
 まるで幼い子どものように。
「だから、お願い・・私と一緒にいて」
 先輩の右目から涙が溢れる。
「何もしなくていいの。お話は私がする。貴方はただ一緒にいてくれるだけていいから・・お願い・、お願い・・」
 看取り人は先輩をじっと見る。
「先輩・・・」
 看取り人は、何かを言おうとして・・止める。
 そして言おうとした言葉に変わってこう呟く。
「分かりました」
 看取り人は、小さく頷く。
「それでは放課後に。昇降口で待ち合わせましょう」


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 先輩が物心ついた時にはもう母親と二人暮らしだったと言う。
 父親のことは知らない。
 母親からも叔母さんからも聞いたことがないと言う。と、言うよりも叔母さんは先輩を保護するまで先輩がこの世に存在していることすら知らなかったのだから無理はない。
 先輩と母親は市外からかなり離れた地方都市のアパートを借りてひっそりと暮らしていた。
 母親は幾つかのパートを掛け持ちして生計を立て、その間、先輩は母親が用意しておいたハンバーガーや飲み物を飲んでアパートに1人でいたと言う。
「1人?」
 看取り人は、眉を顰める。
「何歳の時の話しですか?」
 看取り人の質問に先輩は首を傾げる。
「分からない。物心ついた時にはもうそうだったから・・」
 看取り人の脳裏に|育児放棄《ネグレクト》と言う言葉が浮かぶ。
「ネグレクトって思ったでしょう?」
 看取り人の脳裏を読み取ったように先輩は言う。
 看取り人の三白眼を見開く。
 それを見て先輩は苦笑する。
「実際そうだったと思うよ。私はご飯を作ってもらった記憶もなければ着替えを手伝ってもらった記憶もお風呂も一緒に入った記憶もないもの。部屋はもの凄く汚かったし・・」
 先輩は、きゅっと水筒を握りしめる。
「それでもね。私はママのことが好きだった。帰ってきてくれると嬉しかったし、家に戻ったその日だけは温かいご飯・・お惣菜とかだけど食べさせてくれたし、何より・・優しかった」
 そう言って先輩は悲しげに笑う。
 家に戻ってきた母親はとにかく優しかったと言う。
 甘過ぎると言ってもいい。
 頭を撫でてくれたし、優しく抱きしめてくれて、愛おしく名前を呼んでくれた。
 当たり前。
 親と子ならとんでもなく当たり前のことだが、先輩にとってはその僅かな時間が心から幸せだった。
 そんな生活が何年続いたか分からない。
 保護されたのが8歳なのだから8年なのだろうがまともに学校に行っておらず、テレビで基礎教育を学んだきた先輩には時間感覚がなかったそうだ。
 それとこれは後から知ったそうだが、先輩は出生届が出されていなかった。
 つまりこの世界に存在しない子どもだったのだ。
 しかし、そんなこと当時の先輩が知るわけがない。
 先輩は、母親が用意したハンバーガーや菓子パンを食し、ペットボトルや水道水を飲みながら母親が帰ってくるのを待っていた。
 そんな生活が終わりを迎えたのは突然だった。
「ママが・・私を殺そうとしたの」
 それは突然行われた。
 母親は何の連絡もなく帰ってきた。
 住んでたアパートに固定電話はなく、当然、携帯なんて持っていないから連絡なんてないのは当然なのだがその時の先輩は母親が帰ってきたのを突然にと思った。
 今,思うと本能的な何かが働いていたのかもしれないと先輩は言う。
 それでも、そんな危機察知本能を押し退けるくらい母親が帰ってきたことは先輩にとっては嬉しいことだった。
 先輩は、栄養の行き渡っていない痩せ細った身体で立ち上がり、満面の笑みを浮かべて母親に駆け寄った。
 その顔に今まで感じたことのない痛みが走った。
 左側の視界が真っ暗になる。
 変色した畳に赤黒い水が落ちる。
 頭がクラクラして目の前が揺れる。
 先輩は、朦朧とする頭で何が起きたのかを把握しようとした。が、そんなことは出来なかった。
 お腹に衝撃が走る。
 何かがめり込み、中で何かが折れる音が聞こえる。
 口から赤い液体と食べたばかりのハンバーガーが出てくる。
 先輩は、そのまま自分が吐瀉したものの上にうつ伏せに倒れる。
 背中に痛みが走る。
 何度も何度も走る。
 顔を上げると醜く歪み、テレビで見た鬼のように目を怒らせた母親の顔が見えた。
「マ・・・マ・・・」
 先輩は、母親に手を伸ばす。
 その手を母親は払い除け、踏み潰す。
 激しい痛みと何かが砕ける音が頭の中に響く。
 痛くて苦しくて声が出せない。
 それでも痛みと衝撃はいつまでも襲いくる。
 母親は、憎しみのこもった目で先輩を睨む。
「恨め・・、恨め!」
 母親は、うなされるように、呪うように言葉を吐く。
「マ・・・マ・・」
 先輩は、痛むのない手を母親に伸ばし・・意識が途絶えた。
 どのくらい気を失っていたのか分からない。
 目を覚ますと知らないおばさんが先輩の手を握って大声で泣いていた。
「ごめんなさい・・気づくのが遅くてごめんなさい・・」
 おばさんは、必死に先輩に向かって謝っていた。
 身体中が痛い。
 頭がぼんやりする。
 目がよく見えない。
 そんな事を思いながらも先輩は辛うじて見える右目で周りを見回すと青い服を着た男達に身体を押さえつけられた母親の姿があった。
 母親を押さえているのは確かテレビで見たお巡りさんと言う人たちではなかったか?
 後から聞いた話しだが、先輩の手を握って泣いていたおばさんはアパートの大家さん、先輩の部屋の隣の住民から「隣で子どもの悲鳴が聞こえる」と連絡があり、慌てて駆けつけ、部屋を開けると先輩している母親を見た。
 そして直ぐ様、警察に通報し、現在に至る。
 お巡りさんに押さえつけられた母親はそれでも暴れ、錯乱し、先輩を睨む。
 そして呪禁のように言葉を吐く。
「恨め・・恨め・・!」
「それから私は救急車で病院に運ばれて治療を受けたの」
 そこからの展開は実に早かった。
 警察が区役所を通して先輩の情報を得ようとしたが母親の戸籍に先輩の名前はなく、私生児で分かるとすぐさま、児童相談所と相談、保護した。その後、母親の唯一の血縁である妹、つまり叔母さんに連絡がいった。
 叔母さんは、ずっと行方不明であった姉に子どもがいたことに驚き、さらにその子を虐待していたことが分かり、ショックを超えて怒りが溢れたと言う。
 そして迷うことなく先輩を引き取り、戸籍の取得と特別養子縁組をしたのだと言う。
「叔母さんね。当時、婚約者がいたらしいんだけど、私を引き取るってなったら破棄されちゃったんだって」
 先輩は、ぎゅっと唇を結ぶ。
「それでも叔母さんは私の事を凄く愛してくれたの。大好きって抱きしめてくれたの」
「・・・分かります」
 看取り人は、小さな声で言う。
 先輩に対する叔母さんの愛情が本物であることは疑う余地もない。
「叔母さんはたくさんの愛を注いでくれた。あの出来事を忘れさせようと仕事が忙しいのに懸命にかまってくれた。でも、それでも思い出しちゃうの。ママのことを・・」
 あの時の母親の顔。
 鬼のような形相で自分を殴り、蹴る母親の姿。
 そして呪いのように呟くあの言葉。
 恨め・・・恨め。
「あれはきっと私が生まれたことを恨めって意味だと思うの。私が生まれてきたことでママが不幸になったんだって」
「そんなこと・・・」
 看取り人は言葉に出そうとして・・飲み込む。
 先輩の言葉を否定するだけの材料を今の看取り人は持ってなかったから。
 先輩は、下唇を千切れるのではないかと思えるほどに噛み締める。
「だから、私はママと話したいの。ママの話しを聞いて許しを得たいの」
「許し?」
 先輩は、頷く。
「もしママが・・今でも私のことを恨んでいて・・それが未練として残って私の元に現れたら・・そう思ったら怖いの。怖くて眠れないの。いつもいつもそのことばかり考えちゃうの」
 看取り人の三白眼が揺れる。
「だから私はママの死に立ち会いたいの。話を聞いて、許してもらいたいの。死んでも私の前に出てこないで下さいってお願いしたいの。でも・・怖い。1人でママの前に行くのが怖い・・」
 先輩の手が看取り人の制服の袖を握る。
 まるで幼い子どものように。
「だから、お願い・・私と一緒にいて」
 先輩の右目から涙が溢れる。
「何もしなくていいの。お話は私がする。貴方はただ一緒にいてくれるだけていいから・・お願い・、お願い・・」
 看取り人は先輩をじっと見る。
「先輩・・・」
 看取り人は、何かを言おうとして・・止める。
 そして言おうとした言葉に変わってこう呟く。
「分かりました」
 看取り人は、小さく頷く。
「それでは放課後に。昇降口で待ち合わせましょう」