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第9話 別れ

ー/ー



 マーロン師匠の、天法に関する授業が始まった。
 真剣な面持ちで、一字一句を聞き漏らすまいと姿勢を正すレーキが居る。

「いいかい。法術を使うためには精神を集中させて呪文を唱えるというのが基本だ。まずは身の(うち)から湧き出してくる力を意識する事から始めるよ」

 自分の中から外へ流れ出している天分(てんぶん)の気配を感じて、それに意識を集中させる。
 言葉にするのは簡単だが、実践するのは難しい。始めの三ヶ月は天分を感じて、精神集中する練習に明け暮れた。


 天分の流れを感じられるようになると、そのまま呪文を唱えてその流れを収束させる練習が始まる。呪文によって圧縮された天分は、力となって発現する。
 無から炎が生まれ、水が生まれ、人の治癒力を高め、限界を超えた能力を引き出す。
 簡単な呪文を使えば簡単な天法を使うことが出来る。だが、天法はそれだけではない。

「天法の事だけじゃない。いろんな事をちゃんと学ばなくっちゃ駄目だ。いくらいろんな呪文を一杯知っていても、知識に裏打ちされない術は弱い。なぜ、そうなるのか。どうしたらそうなるのか。現象の性質を捉え、それを生かすんだ。学び続けることが天法の研鑽(けんさん)にもつながるんだよ」

 天法の学習と平行して、マーロン師匠はこれまでにも増してレーキに学問を教えた。
 乾いていた大地が雨を飲むように、レーキは沢山の事を学んで行った。
 不思議と暖かい冬を迎えて。アスールに遅い春が来て。レーキは十七歳になっていた。


 ◇◇◇


 マーロン師匠が体調を崩し始めたのは、レーキが十七歳になった冬だった。
 風邪をひいて寝込んだマーロン師匠は、激しい咳をするようになり、そのまま度々床につくようになった。
 それまで美しい輝きを湛えていた五つの王珠(おうじゅ)が、日一日と曇りがちになる。もともとそう大柄ではない師匠の体は、すっかり細く痩せてしまった。七十の坂を越えてなお、健康そうな色を保っていた頬は、病み疲れた土気色になった。
 原因は分からない。ただマーロン師匠は笑って言った。

「寿命さ」

 その苦しげな笑みが、レーキにとって恐怖だった。(こく)一刻(いっこく)と近づいている。その時を予感させるから。
 大勢の村人が、見舞いに訪れた。みな、何らかの形でマーロン師匠に世話になった者たちだった。
 家事と看病、その合間に見舞客の対応に追われた。
 空いた時間を見つけて勉強しようかと努力はしたが、本を読んでもマーロン師匠の容態が気になってろくろく頭に入ってこない。
 病魔に冒され、すっかり軽くなった体をベッドに横たえたまま、マーロン師匠は多くの時間を眠って過ごすようになった。
 眠りの間に、マーロン師匠は喜び、怒り、そして涙した。
 沢山の思い出。その一つ一つが彼女の老いた体を通り抜けて行く。着実にマーロン師匠は死へと足を進める。レーキにはどうすることもできなかった。
 いや、どんなに偉大な天法士でも時の流れには抗い切れない。自分の体が変調をきたして、マーロン師匠は初めて思い知ったのか、彼女は諦めているようだった。


 もう直、春の芽吹きが訪れようとする頃。レーキをベッドの傍らに呼ぶと、マーロン師匠は彼の手を弱々しく握りしめた。

「明日、ラエティアがチーズを持ってくるってさ。それで、粥を作る。沢山食べて……早くよくなって……」

 自らを鼓舞して明るく笑う。湿っぽくなったりしたら、弱気になったりしたら、だめだ。
 師匠は大丈夫。きっと大丈夫。何度も何度も、眠る前にベッドの中で呟いた言葉。明日こそ、明日こそ。きっと元気になる。

「……すまないね……レーキ。もう少し……お前の側にいてやれるかと……思っていたんだが……」

 深い(しわ)の刻まれた口許が、引き釣れる。それが微笑みだと分かるまでに一刹那(ひとせつな)。レーキは愕然(がくぜん)とする。師匠の顔には、既にはっきりと死相が()かれている。

「何言ってるんだよ! 大丈夫だよ! きっと良くなるよ!」

 レーキはマーロン師匠の手を強く握った。泣きじゃくってすがり付きたかった。行かないでと。
 (はかな)い望みがそうさせてくれない。
 両親に(うと)まれ、里親に虐げられてきた彼にとって、マーロン師匠は人生の中で愛をくれた数少ない人の一人だった。死んでほしくなんかない。いつまでも側にいてほしい。初めて心からそう思った。
 マーロン師匠は咳き込んだ。細く枯れ枝のようになった首が、ゆっくりと振られる。

「……あたしはもうだめだ。体中が死んでいくのが分かる……よおくお聞き。最後の授業だよ……あたしが死ぬことを悲しんでいい。おもいっきり……泣いていいから……その後は前を見て……歩くんだよ……」

 思いがけず力強い反応が、手のひらに返ってくる。最後の、命の(きら)めき。マーロン師匠はレーキの手を強く強く握りしめる。

「師匠! だめだ! 死なないで! 置いていかないでっ!」

 レーキは叫んでいた。一つ残った左目は潤み出していた。自分に呼び戻しの術が使えたなら。自分がたった今天法士でないことが、心底悔しかった。恨めしかった。

「……お前の……行く道を……よい炎が……照らして……くれます……よう……に……」

 最後の一息が、マーロン師匠の唇から抜けて行く。彼女は目を閉じた。今まで痛みと痺れで重く彼女を縛りつけていた肉体から、魂が抜け出て。浮き上がる。


『なんて、良い気もちなんだろうね』


 その一言はもうレーキには届かない。

「師匠ぉぉぉっ!!!」

 マーロン師匠のか細い指先は、急速に暖かさを失っていった。それに呼応して、マーロン師匠が身に着けていた王珠(おうじゅ)が輝きを失ってゆく。微かな温もりにすがって、レーキは幾度も最愛の師匠を呼んだ。
 答えが返ってくることは、決してない。それすらも、今のレーキには分からなかった。
 分かりたくはなかった。マーロン師匠は微笑んでいた。その年老いた唇が、もう二度と自分の名を呼んではくれないことなど。信じたくはなかった。

 ──嘘だろ……?

 無くしたくなかった。レーキの幸福は、惜しみない愛情と知識を注いでくれる、マーロン師匠の側にいることだった。やっと見つけた自分を愛してくれる人を、失いたくなかった。
 レーキはマーロン師匠の細い手を両手で包み込むように握った。少しずつ、その指先からあたたかな温もりが失われてゆく。
 何とかしなくっちゃ。このままこのぬくもりが全て失われる前に。師匠が、完全に死者の王の国へ行ってしまう前に。
 レーキは涙の(にじ)んだ左目をぬぐった。マーロン師匠の蔵書の中には禁忌とされる法術や、高度な知識が必要とされる法術について書かれた本があったはずだ。まだちゃんと読んだことは無かったが、何処にあるのかは知っている。赤い皮の表紙だ。
 無理だと心の何処かで思っていた。やって見なければわからない、と、何度も自分に言い聞かせた。ページをめくる指がすべる。目当ての項目を見つけるまで、いやに長い時間がかかった。


『呼び戻しの法』


 これだ。レーキは息を呑む。本を開いたままベッドにのせて、マーロン師匠の手を取って跪いた。祈るように。目を閉じた。
 赤竜王様。全ての命を生み出した五色の竜王様。天王(てんおう)様。天の法の天王様。俺に力を貸して下さい。師匠を返して下さい。連れて行かないで下さい。
 養父、養母と住んでいた村にも、竜王と天王を祭る小さな拝殿があったが、レーキはまともに(もう)でたことは無かった。正式な祈りの言葉は知らない。ただ必死にすがった。心から。
 マーロン師匠の教えのとおりに、乱れた心を落ち着けようと何度も深呼吸した。ゆっくりと(まぶた)を開ける。呼吸は整った。 
 表面上は落ち着いて見える。もう一度深く息を吸い込んで、レーキは唇を開く。

「『地の母、地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王、すべての死せる者を束ねる死人の王。この者は未だ死すべき定めにあらずして……』」

 長い詠唱(えいしょう)が続く。古の言葉と今の言葉が入り混じった、不可解な呪文。読み進めるにつれて、レーキの額に汗が浮かび始める。
 言葉に力が宿ってゆくのを感じる。それは小さな炎を指先に現す時にも感じていた。体から何かが抜けて、口からあふれた声に()けてゆくような感覚。ただ、いま身の(うち)から抜け出ている力は小さな炎の場合の比ではない。終いには骨も肉もまとめて持って行かれそうなほど、大きな力が体から抜け出てゆく。それでもレーキは詠唱をやめなかった。

 ──行かないで……師匠!!!

 思いのたけを呪文に()める。既に冷え始めている師匠の手を、ぎゅっと握り締めた。一瞬で、この四年間の思い出がよぎった。
 時には厳しく、そして優しい、長い年月を経て勝ち得た自信と平穏が同居する眼差し。皺だらけの、よく働く指先。師であり、母であり、祖母、祖父でもあった、大切な人。

「『……戻り着たれっ!』」

 声を限りに最後の一句を叫ぶ。しんと静まり返った部屋に木霊(こだま)が残る。
 だめだったかと思った。何も起きないのかと。しかし、最後の木霊が消え去る瞬間、マーロン師匠の遺骸(いがい)がまばゆい光を帯びだした。

「……っ!?」

 驚きのあまり声も出ない。やがて光は奔流(ほんりゅう)となって立ち昇る。
 それは次第に人のような形を、明かりも無かった室内に映し出す。長い髪。光があんまり(まぶ)しくて、顔はよく分からない。広い肩の輪郭は男のようであるが、はっきりとはしない。
 激しい風が部屋中に渦巻いている。レーキの背の羽も、伸ばし始めた白色の髪も、ばたばたとはためいた。

『……の者は……もう……肉を……欲し……いない……』

 どこか遠く。風の中から聞こえてくるような、切れ切れに揺らめく言葉が耳に届いた。男でも女でもない、低くて高い声。

「……!? ……どうしてっ!」

 問いかけも風にかき消えそうだ。レーキは精一杯大きな声で叫ぶ。

『……生きた者……必ず……滅びる……それが……法……』
「……嫌だっ! 俺は師匠と一緒に居たいんだっ! ……返せよっ! 返してくれよぉぉぉっ!!」

 いつの間にやら泣き出していた。しっかりと師匠の手を握り締めて、幼子のように泣きながら、誰とも知れない光の形に必死に訴える。

「……師匠は俺に全てをくれたっ! 俺にしあわせをくれたっ! 俺はまだ天法士にもなってないっ! 師匠に恩返しもしてないっ! 嫌だっ! まだここにいてよっ!!」

 レーキの叫びに押されるように、風向きが変わる。光に浮かぶ人影が大きく揺らいだ。
 たじろいだ気配が、伝わってくる。

『……汝は……法を……侵してい……る……定めは……変えら……ぬ……』

 光が輝度を増した。人影が大きく膨らむ。光が弾けた。一瞬、突風が(ほとばし)り、レーキは思わず師匠の手を離した。
 その瞬間。何もかもが白い光に融けて、レーキの体はそのまま壁に叩きつけられた。

「……ぐっ!?」

 鋭い痛みが背中から全身に走る。
 意識を失う瞬間、レーキははっきりとその声を聞いた。

『汝は我が領域を(おか)した。汝は呪いを受けねばならぬ。汝が愛した者は必ず汝よりも先に我が領土の住人となるであろう』

 我が領土。それでは貴方は幼い頃、脅し文句の中に聞いた、死者が行く(くら)い国の王だと言うのか。言葉の意味を反芻する前に、レーキは意識を失った。


次のエピソードへ進む 第10話 チェストの中の手紙


みんなのリアクション

 マーロン師匠の、天法に関する授業が始まった。
 真剣な面持ちで、一字一句を聞き漏らすまいと姿勢を正すレーキが居る。
「いいかい。法術を使うためには精神を集中させて呪文を唱えるというのが基本だ。まずは身の|裡《うち》から湧き出してくる力を意識する事から始めるよ」
 自分の中から外へ流れ出している|天分《てんぶん》の気配を感じて、それに意識を集中させる。
 言葉にするのは簡単だが、実践するのは難しい。始めの三ヶ月は天分を感じて、精神集中する練習に明け暮れた。
 天分の流れを感じられるようになると、そのまま呪文を唱えてその流れを収束させる練習が始まる。呪文によって圧縮された天分は、力となって発現する。
 無から炎が生まれ、水が生まれ、人の治癒力を高め、限界を超えた能力を引き出す。
 簡単な呪文を使えば簡単な天法を使うことが出来る。だが、天法はそれだけではない。
「天法の事だけじゃない。いろんな事をちゃんと学ばなくっちゃ駄目だ。いくらいろんな呪文を一杯知っていても、知識に裏打ちされない術は弱い。なぜ、そうなるのか。どうしたらそうなるのか。現象の性質を捉え、それを生かすんだ。学び続けることが天法の|研鑽《けんさん》にもつながるんだよ」
 天法の学習と平行して、マーロン師匠はこれまでにも増してレーキに学問を教えた。
 乾いていた大地が雨を飲むように、レーキは沢山の事を学んで行った。
 不思議と暖かい冬を迎えて。アスールに遅い春が来て。レーキは十七歳になっていた。
 ◇◇◇
 マーロン師匠が体調を崩し始めたのは、レーキが十七歳になった冬だった。
 風邪をひいて寝込んだマーロン師匠は、激しい咳をするようになり、そのまま度々床につくようになった。
 それまで美しい輝きを湛えていた五つの|王珠《おうじゅ》が、日一日と曇りがちになる。もともとそう大柄ではない師匠の体は、すっかり細く痩せてしまった。七十の坂を越えてなお、健康そうな色を保っていた頬は、病み疲れた土気色になった。
 原因は分からない。ただマーロン師匠は笑って言った。
「寿命さ」
 その苦しげな笑みが、レーキにとって恐怖だった。|刻《こく》、|一刻《いっこく》と近づいている。その時を予感させるから。
 大勢の村人が、見舞いに訪れた。みな、何らかの形でマーロン師匠に世話になった者たちだった。
 家事と看病、その合間に見舞客の対応に追われた。
 空いた時間を見つけて勉強しようかと努力はしたが、本を読んでもマーロン師匠の容態が気になってろくろく頭に入ってこない。
 病魔に冒され、すっかり軽くなった体をベッドに横たえたまま、マーロン師匠は多くの時間を眠って過ごすようになった。
 眠りの間に、マーロン師匠は喜び、怒り、そして涙した。
 沢山の思い出。その一つ一つが彼女の老いた体を通り抜けて行く。着実にマーロン師匠は死へと足を進める。レーキにはどうすることもできなかった。
 いや、どんなに偉大な天法士でも時の流れには抗い切れない。自分の体が変調をきたして、マーロン師匠は初めて思い知ったのか、彼女は諦めているようだった。
 もう直、春の芽吹きが訪れようとする頃。レーキをベッドの傍らに呼ぶと、マーロン師匠は彼の手を弱々しく握りしめた。
「明日、ラエティアがチーズを持ってくるってさ。それで、粥を作る。沢山食べて……早くよくなって……」
 自らを鼓舞して明るく笑う。湿っぽくなったりしたら、弱気になったりしたら、だめだ。
 師匠は大丈夫。きっと大丈夫。何度も何度も、眠る前にベッドの中で呟いた言葉。明日こそ、明日こそ。きっと元気になる。
「……すまないね……レーキ。もう少し……お前の側にいてやれるかと……思っていたんだが……」
 深い|皺《しわ》の刻まれた口許が、引き釣れる。それが微笑みだと分かるまでに|一刹那《ひとせつな》。レーキは|愕然《がくぜん》とする。師匠の顔には、既にはっきりと死相が|掃《は》かれている。
「何言ってるんだよ! 大丈夫だよ! きっと良くなるよ!」
 レーキはマーロン師匠の手を強く握った。泣きじゃくってすがり付きたかった。行かないでと。
 |儚《はかな》い望みがそうさせてくれない。
 両親に|疎《うと》まれ、里親に虐げられてきた彼にとって、マーロン師匠は人生の中で愛をくれた数少ない人の一人だった。死んでほしくなんかない。いつまでも側にいてほしい。初めて心からそう思った。
 マーロン師匠は咳き込んだ。細く枯れ枝のようになった首が、ゆっくりと振られる。
「……あたしはもうだめだ。体中が死んでいくのが分かる……よおくお聞き。最後の授業だよ……あたしが死ぬことを悲しんでいい。おもいっきり……泣いていいから……その後は前を見て……歩くんだよ……」
 思いがけず力強い反応が、手のひらに返ってくる。最後の、命の|煌《きら》めき。マーロン師匠はレーキの手を強く強く握りしめる。
「師匠! だめだ! 死なないで! 置いていかないでっ!」
 レーキは叫んでいた。一つ残った左目は潤み出していた。自分に呼び戻しの術が使えたなら。自分がたった今天法士でないことが、心底悔しかった。恨めしかった。
「……お前の……行く道を……よい炎が……照らして……くれます……よう……に……」
 最後の一息が、マーロン師匠の唇から抜けて行く。彼女は目を閉じた。今まで痛みと痺れで重く彼女を縛りつけていた肉体から、魂が抜け出て。浮き上がる。
『なんて、良い気もちなんだろうね』
 その一言はもうレーキには届かない。
「師匠ぉぉぉっ!!!」
 マーロン師匠のか細い指先は、急速に暖かさを失っていった。それに呼応して、マーロン師匠が身に着けていた|王珠《おうじゅ》が輝きを失ってゆく。微かな温もりにすがって、レーキは幾度も最愛の師匠を呼んだ。
 答えが返ってくることは、決してない。それすらも、今のレーキには分からなかった。
 分かりたくはなかった。マーロン師匠は微笑んでいた。その年老いた唇が、もう二度と自分の名を呼んではくれないことなど。信じたくはなかった。
 ──嘘だろ……?
 無くしたくなかった。レーキの幸福は、惜しみない愛情と知識を注いでくれる、マーロン師匠の側にいることだった。やっと見つけた自分を愛してくれる人を、失いたくなかった。
 レーキはマーロン師匠の細い手を両手で包み込むように握った。少しずつ、その指先からあたたかな温もりが失われてゆく。
 何とかしなくっちゃ。このままこのぬくもりが全て失われる前に。師匠が、完全に死者の王の国へ行ってしまう前に。
 レーキは涙の|滲《にじ》んだ左目をぬぐった。マーロン師匠の蔵書の中には禁忌とされる法術や、高度な知識が必要とされる法術について書かれた本があったはずだ。まだちゃんと読んだことは無かったが、何処にあるのかは知っている。赤い皮の表紙だ。
 無理だと心の何処かで思っていた。やって見なければわからない、と、何度も自分に言い聞かせた。ページをめくる指がすべる。目当ての項目を見つけるまで、いやに長い時間がかかった。
『呼び戻しの法』
 これだ。レーキは息を呑む。本を開いたままベッドにのせて、マーロン師匠の手を取って跪いた。祈るように。目を閉じた。
 赤竜王様。全ての命を生み出した五色の竜王様。|天王《てんおう》様。天の法の天王様。俺に力を貸して下さい。師匠を返して下さい。連れて行かないで下さい。
 養父、養母と住んでいた村にも、竜王と天王を祭る小さな拝殿があったが、レーキはまともに|詣《もう》でたことは無かった。正式な祈りの言葉は知らない。ただ必死にすがった。心から。
 マーロン師匠の教えのとおりに、乱れた心を落ち着けようと何度も深呼吸した。ゆっくりと|瞼《まぶた》を開ける。呼吸は整った。 
 表面上は落ち着いて見える。もう一度深く息を吸い込んで、レーキは唇を開く。
「『地の母、地の父、全ての生きとし生ける者を統べる定めの王、すべての死せる者を束ねる死人の王。この者は未だ死すべき定めにあらずして……』」
 長い|詠唱《えいしょう》が続く。古の言葉と今の言葉が入り混じった、不可解な呪文。読み進めるにつれて、レーキの額に汗が浮かび始める。
 言葉に力が宿ってゆくのを感じる。それは小さな炎を指先に現す時にも感じていた。体から何かが抜けて、口からあふれた声に|融《と》けてゆくような感覚。ただ、いま身の|裡《うち》から抜け出ている力は小さな炎の場合の比ではない。終いには骨も肉もまとめて持って行かれそうなほど、大きな力が体から抜け出てゆく。それでもレーキは詠唱をやめなかった。
 ──行かないで……師匠!!!
 思いのたけを呪文に|籠《こ》める。既に冷え始めている師匠の手を、ぎゅっと握り締めた。一瞬で、この四年間の思い出がよぎった。
 時には厳しく、そして優しい、長い年月を経て勝ち得た自信と平穏が同居する眼差し。皺だらけの、よく働く指先。師であり、母であり、祖母、祖父でもあった、大切な人。
「『……戻り着たれっ!』」
 声を限りに最後の一句を叫ぶ。しんと静まり返った部屋に|木霊《こだま》が残る。
 だめだったかと思った。何も起きないのかと。しかし、最後の木霊が消え去る瞬間、マーロン師匠の|遺骸《いがい》がまばゆい光を帯びだした。
「……っ!?」
 驚きのあまり声も出ない。やがて光は|奔流《ほんりゅう》となって立ち昇る。
 それは次第に人のような形を、明かりも無かった室内に映し出す。長い髪。光があんまり|眩《まぶ》しくて、顔はよく分からない。広い肩の輪郭は男のようであるが、はっきりとはしない。
 激しい風が部屋中に渦巻いている。レーキの背の羽も、伸ばし始めた白色の髪も、ばたばたとはためいた。
『……の者は……もう……肉を……欲し……いない……』
 どこか遠く。風の中から聞こえてくるような、切れ切れに揺らめく言葉が耳に届いた。男でも女でもない、低くて高い声。
「……!? ……どうしてっ!」
 問いかけも風にかき消えそうだ。レーキは精一杯大きな声で叫ぶ。
『……生きた者……必ず……滅びる……それが……法……』
「……嫌だっ! 俺は師匠と一緒に居たいんだっ! ……返せよっ! 返してくれよぉぉぉっ!!」
 いつの間にやら泣き出していた。しっかりと師匠の手を握り締めて、幼子のように泣きながら、誰とも知れない光の形に必死に訴える。
「……師匠は俺に全てをくれたっ! 俺にしあわせをくれたっ! 俺はまだ天法士にもなってないっ! 師匠に恩返しもしてないっ! 嫌だっ! まだここにいてよっ!!」
 レーキの叫びに押されるように、風向きが変わる。光に浮かぶ人影が大きく揺らいだ。
 たじろいだ気配が、伝わってくる。
『……汝は……法を……侵してい……る……定めは……変えら……ぬ……』
 光が輝度を増した。人影が大きく膨らむ。光が弾けた。一瞬、突風が|迸《ほとばし》り、レーキは思わず師匠の手を離した。
 その瞬間。何もかもが白い光に融けて、レーキの体はそのまま壁に叩きつけられた。
「……ぐっ!?」
 鋭い痛みが背中から全身に走る。
 意識を失う瞬間、レーキははっきりとその声を聞いた。
『汝は我が領域を|侵《おか》した。汝は呪いを受けねばならぬ。汝が愛した者は必ず汝よりも先に我が領土の住人となるであろう』
 我が領土。それでは貴方は幼い頃、脅し文句の中に聞いた、死者が行く|昏《くら》い国の王だと言うのか。言葉の意味を反芻する前に、レーキは意識を失った。