表示設定
表示設定
目次 目次




第六章

ー/ー



 夜が開けて、二人が目にしたのは、焼け落ちた村の家々の残骸であった。
 屋根が焼け落ち、焦げた柱だけが無意味に残った家では、炭となった木から雨の水を受けて白い煙をあげている。
 夜党の徹底した焼き討ちは、和馬のいた納屋ですら見逃す事はしなかった。襲撃をかろうじて逃れた人々は、この様な村の惨状を目の当たりにして、呆然とただ立ち尽くす。これから秋‥‥そして冬にむけてどうすればよいのだろうかと‥‥。

 村は廃村と決まった。

「そうか、いた仕方ないの‥‥」
 景庵は、村人の代表の言葉を聞いて、いささか大仰とも言えるため息をついた。
「そういう訳ですので、住職も早めに移られた方がいいです。この辺りからは誰もいなくなります。また夜党の奴らが来るといけませんし‥‥」
「なに、奴らとて、こんなボロ寺に、金目の物なんかあるとは思ってもおらんじゃろうよ。だから心配せんでよい。それよりご苦労じゃったな」
「‥‥いえ‥‥住職も‥‥達者で‥‥」
 それだけ言うと、お辞儀をして出て行った。
「ふむ」
 景庵は肩をすくめて寺の方に向き直る。
 障子も破れ、戸の枠も折れた部屋を横目に奥に進む。
 そして裏口に近い所まで来た時、ガラガラと重い引き戸を開けた。
「きゃあ!」
「うお!」
 景庵はいきなり顔にお湯をかけられ、慌てて戸を閉めた。
 そこにいたのは深緒と、和馬である。
 和馬は笑って言った。
「ひどいな」
「‥‥‥‥‥‥」
 深緒は大きな桶の中に入っていた。中にはお湯がなみなみとある。ここ数日の長雨で水は十分に蓄える事が出来、湯浴みにすら使える様になっていた。
 普段は湯を使う事はなかった。いつも冷たい水でしか洗った事のない深緒には始めての事である。
「加減はこんなものだろう‥‥」
 和馬は、火吹き棒を片手に、煤だらけの額を拭った。
「‥‥私‥‥お湯につかるなんて始めてで‥‥」
 深緒は口の辺りまで深くつかりながら、少し嬉しそうに言った。
「そうか。風呂は湯に入るものだ。都では身分の高い者しか使えないがな‥‥こんなものを持ってるとは、ここの坊主も、とんだ生臭坊主だ」
「和馬様は、都の方まで行った事があるんですか?」
「‥‥ん‥‥まあ‥‥な」
 和馬の答は、歯切れの悪いものであった。
「皆‥‥いい所に違いないと思ってるが、実態は酷いものだ‥‥食えずに行き倒れてる者があっちこっちにいる。少しの食べ物を巡って争いは絶えない‥‥裕福なのはほんの一部の貴族だけだ」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「この村はいい所だった‥‥俺は自分の居場所を見つけた気さえしていた‥‥」
「‥‥‥‥」
 深緒は、和馬の言葉の一つ一つを心の中で噛みしめた。
 気さえ‥‥していた‥‥今、ここに和馬の居場所はないのかと‥‥。
「あっ!」
「どうした深緒!?」
 深緒は湯の中でもじもじと体を動かした。
「‥‥いえ‥‥その‥‥か、和馬様‥‥」
「何だ?」
「‥‥私‥‥そろそろ‥‥外に‥‥」
「‥‥ん、出ればいいだろう?」
「だ、だから‥‥その‥‥和馬様は‥‥外に ‥‥」
「?‥‥おかしな奴だな。背中ぐらい流してやるぞ」
「‥‥‥‥‥」
「ん?‥‥‥‥おわっ!」
 和馬は景庵と同じ様に、顔に湯をかけられた。




 人気の無くなった村は、瞬く間に廃村の色を帯びてくる。軒先であったものは、ただの焼け残りの廃材を残すのみであり、かつてそこに人が生活を営んでいた痕跡を残すものは、早々に無くなりつつあった。
 やがて海を渡る蒼い風が、透明な風に変わる。
 季節は巡り、夏は終わり秋になった。
 その時になっても、景庵は村外れの寺から移らずにいた。毎日を犠牲者の為に供養を続けている。身寄りの無い深緒は、その景庵の寺に身を寄せていた。
 そして村の直中に住む者がただ一人‥‥。 
 



「和馬様ぁ!」
 深緒は、裸足で波打ち際の砂浜を走った。寄せては返す、波間を器用に避ける。秋の海は、足が踏みつける濡れた砂も、そこはかとなく冷たく感じる。夏の間、あれほどいたカラス達の声も、今は聞こえず、代わりにいつ来たのか、カモメが浜の岩の上で空を見つめながら鳴いていた。
「和馬様!」
 深緒はもう一度、和馬を呼んだ。沖の方の一番先の岩、そこに座っている和馬の姿が見えた。
「‥よっ‥こいせっ‥‥と」
 姿は見えていたが、和馬のいる所までは結構遠い。深緒は岩場を急いだ。
 そしてようやくたどり着く。
「和馬様?」
「ん、どうした?」
 深緒は和馬の隣に膝を抱えて座った。
 入り江の先まで伸びた岩場の端の先端。右も左も海しか見えず、まるで大海の真ん中にいる様に見える。波が当たる音と、風の音以外は何の音も聞こえない。ここがいつも和馬の、そして最近は二人の居場所であった。
 和馬はいつも黙って海を見つめていた。
「‥‥何を‥‥考えていたのですか?」
「深緒は前も同じ事を聞いたな」
「‥‥そうでしたでしょうか‥‥‥」
 深緒も言われて、海から空に目を移す。あの時は、空を眺めながら話していた事を思い出していたからである。
「変わらないんですね‥‥雲は‥‥‥」
「そうでもない、夏と違って薄く広がった雲が多くなっている。もう少しすればもっと違いがはっきりしてくる。毎年、同じだ」
「‥‥‥同じ‥‥ですか‥‥」
 ぼそっと呟く。
 深緒は組んだ両手に、傾けた頭をくっつけ、和馬の横顔を見た。
 もう少しすれば、秋が終わり、冬が来て、和馬はここを出て行く。それは既にない次郎との約束ではあったが、だからと言って破る事はしない事を、深緒は確信していた。
 残された自分はどうすればいいのか見当もつかず、その時の事を想像してぞっとした。
「‥‥いや、そうでもないな‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
 急に和馬がこっちに顔を向けたので、深緒は慌てて目を逸らした。
「深緒は大きくなったな。もう立派な大人だ」
「‥‥‥‥‥‥」
 何と答えて良いか分からずに、深緒は黙っていた。顔が赤くなったのが分かり、和馬の顔をまともに見る事が出来なかった。
 冬が過ぎて、春が来ても、和馬と離れたくはなかった。
「和馬様‥‥私‥‥春になったら、山に行ってみたい‥‥そこはね春に‥‥真っ白な君 影草がたくさん咲くの‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥」
 和馬は何も言わず、深緒は顔を曇らせる。
嫌な事を言ってる事は、承知していた。自分は何と嫌な奴なのかと‥‥‥。姉の言葉を守った様に、もしかしたらのわずかな希望であった。
「‥‥‥春に‥‥」
「‥‥行けたらいいな‥‥」
「‥‥はい‥‥」
 深緒には、それ以上何も言えなかった。




 それから月日は流れた。
 身を切る風の冷たさは、秋風の比ではない。
 直せる所は直したものの、隙間だらけの寺の中にも、容赦なく入り込んで来る。いつの間にそうなったのか、あまりにも自然で気付かぬ程である。
 そして、パラパラと小雪が降りだした朝‥‥‥。


「‥う‥‥ん‥‥」
 深緒はいつもと違う肌の感触に目が覚めた。
 布団の中に丸まっていても、首の辺りの隙間から、冷たい空気が入り込んで来る。
 布団に入ったまま手だけ出して、戸を開ける。
「‥‥何‥‥‥雪?‥」
 背中に背負った状態で、ごしごしと目を擦った。
 粗末な部屋の中にある物は、和馬に取り返してもらった裁縫箱が一つだけ。昨晩は馴れない手つきで縫っていた。
「‥‥‥‥‥‥」
 深緒は、鉢巻を手に取って眺めた。一生懸命にやったつもりではあったが、やはりあちこち縫い目が蛇行している。
‥‥喜んでくれるかな‥‥‥
 そっと頬に当ててみる。
 和馬には、わがままを言いっぱなしであったので、何かお礼をしたかった。だが自分があげれる物は何もなく、考えた末に結局手製の鉢巻になった。
 縫いながらも、月明かりだけで手元を照らしていたので‥‥という理由を色々考えていた。
「‥‥寒‥‥‥‥」
 思いきって布団から外に出てみると、予想以上に寒かった。白い息を、擦りあわせた両手に吹きかける。
 深緒は立ち上がって、隣の和馬の部屋の戸を静かに開けた。
「‥‥あれ?‥‥」
 和馬はいなかった。
 室内は整然としていた。昨日までクシャクシャになっていた和馬の布団まで、きちんと、三折りにたたんである。
 そしてその上に‥‥‥。
「‥‥‥‥」
 深緒は、かつて自分も握った事のある刀を持ち上げた。
 今まで和馬はどの様な時も手放したのを、見た事がない。何かが奇妙だった。
「‥‥‥‥」
 深緒は景庵の部屋にドカドカと走った。
 何も言わずに、ガラッと戸を開ける。
「‥‥‥ん、深緒か?」
 景庵は早朝にも関わらず、きちんとした身なりをして起きていた。
「か、和馬様は、何処に!?」
「‥‥‥座りなさい」
 景庵は、厳しい面もちで床の一隅を差し示した。
「‥‥‥‥‥‥」
 深緒は、両手をきつく握りしめて、はやる心を押さえて何とか座る。心臓の鼓動が早い。
「‥‥良く聞くのじゃ‥‥和馬はな‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥和馬は旅に出た‥‥もうここには戻っては来ぬ」
「そ、そんな‥‥一体何処に⁈」
「深緒、和馬は自らの運命を、自らの手で結 論付けようとしておる。追ってはならぬ!」
「‥‥‥そんなの‥‥そんなのって‥‥」
 持ってきた和馬の刀を、膝の上でギュッと握った。その手が細かく震えている。
「‥よいな、深緒‥‥今は辛いだろうが、年を経れば、やがて忘れる。‥‥和馬は深緒に、誰よりも幸せになってほしいと‥‥‥」
「そんなのってない!」
 深緒は、驚く程の大声を出した。
「‥‥そんなのって‥‥私は、和馬様がいなきゃ、ちっとも幸せじゃないよ!」
 深緒はそれだけ言うと、部屋を飛び出した。
「深緒、何処に行く!」
 景庵の制止を聞かず、深緒は寺から出て行った。


write-comment-iconコメントを書く
write-comment-iconレビューを書く




comment-icon新着コメント



コメントはありません。投稿してみようっ!


表示設定 表示設定
ツール 目次
前のエピソード 第五章

第六章

ー/ー

 夜が開けて、二人が目にしたのは、焼け落ちた村の家々の残骸であった。
 屋根が焼け落ち、焦げた柱だけが無意味に残った家では、炭となった木から雨の水を受けて白い煙をあげている。
 夜党の徹底した焼き討ちは、和馬のいた納屋ですら見逃す事はしなかった。襲撃をかろうじて逃れた人々は、この様な村の惨状を目の当たりにして、呆然とただ立ち尽くす。これから秋‥‥そして冬にむけてどうすればよいのだろうかと‥‥。

 村は廃村と決まった。

「そうか、いた仕方ないの‥‥」
 景庵は、村人の代表の言葉を聞いて、いささか大仰とも言えるため息をついた。
「そういう訳ですので、住職も早めに移られた方がいいです。この辺りからは誰もいなくなります。また夜党の奴らが来るといけませんし‥‥」
「なに、奴らとて、こんなボロ寺に、金目の物なんかあるとは思ってもおらんじゃろうよ。だから心配せんでよい。それよりご苦労じゃったな」
「‥‥いえ‥‥住職も‥‥達者で‥‥」
 それだけ言うと、お辞儀をして出て行った。
「ふむ」
 景庵は肩をすくめて寺の方に向き直る。
 障子も破れ、戸の枠も折れた部屋を横目に奥に進む。
 そして裏口に近い所まで来た時、ガラガラと重い引き戸を開けた。
「きゃあ!」
「うお!」
 景庵はいきなり顔にお湯をかけられ、慌てて戸を閉めた。
 そこにいたのは深緒と、和馬である。
 和馬は笑って言った。
「ひどいな」
「‥‥‥‥‥‥」
 深緒は大きな桶の中に入っていた。中にはお湯がなみなみとある。ここ数日の長雨で水は十分に蓄える事が出来、湯浴みにすら使える様になっていた。
 普段は湯を使う事はなかった。いつも冷たい水でしか洗った事のない深緒には始めての事である。
「加減はこんなものだろう‥‥」
 和馬は、火吹き棒を片手に、煤だらけの額を拭った。
「‥‥私‥‥お湯につかるなんて始めてで‥‥」
 深緒は口の辺りまで深くつかりながら、少し嬉しそうに言った。
「そうか。風呂は湯に入るものだ。都では身分の高い者しか使えないがな‥‥こんなものを持ってるとは、ここの坊主も、とんだ生臭坊主だ」
「和馬様は、都の方まで行った事があるんですか?」
「‥‥ん‥‥まあ‥‥な」
 和馬の答は、歯切れの悪いものであった。
「皆‥‥いい所に違いないと思ってるが、実態は酷いものだ‥‥食えずに行き倒れてる者があっちこっちにいる。少しの食べ物を巡って争いは絶えない‥‥裕福なのはほんの一部の貴族だけだ」
「‥‥‥‥‥‥‥」
「この村はいい所だった‥‥俺は自分の居場所を見つけた気さえしていた‥‥」
「‥‥‥‥」
 深緒は、和馬の言葉の一つ一つを心の中で噛みしめた。
 気さえ‥‥していた‥‥今、ここに和馬の居場所はないのかと‥‥。
「あっ!」
「どうした深緒!?」
 深緒は湯の中でもじもじと体を動かした。
「‥‥いえ‥‥その‥‥か、和馬様‥‥」
「何だ?」
「‥‥私‥‥そろそろ‥‥外に‥‥」
「‥‥ん、出ればいいだろう?」
「だ、だから‥‥その‥‥和馬様は‥‥外に ‥‥」
「?‥‥おかしな奴だな。背中ぐらい流してやるぞ」
「‥‥‥‥‥」
「ん?‥‥‥‥おわっ!」
 和馬は景庵と同じ様に、顔に湯をかけられた。




 人気の無くなった村は、瞬く間に廃村の色を帯びてくる。軒先であったものは、ただの焼け残りの廃材を残すのみであり、かつてそこに人が生活を営んでいた痕跡を残すものは、早々に無くなりつつあった。
 やがて海を渡る蒼い風が、透明な風に変わる。
 季節は巡り、夏は終わり秋になった。
 その時になっても、景庵は村外れの寺から移らずにいた。毎日を犠牲者の為に供養を続けている。身寄りの無い深緒は、その景庵の寺に身を寄せていた。
 そして村の直中に住む者がただ一人‥‥。 
 



「和馬様ぁ!」
 深緒は、裸足で波打ち際の砂浜を走った。寄せては返す、波間を器用に避ける。秋の海は、足が踏みつける濡れた砂も、そこはかとなく冷たく感じる。夏の間、あれほどいたカラス達の声も、今は聞こえず、代わりにいつ来たのか、カモメが浜の岩の上で空を見つめながら鳴いていた。
「和馬様!」
 深緒はもう一度、和馬を呼んだ。沖の方の一番先の岩、そこに座っている和馬の姿が見えた。
「‥よっ‥こいせっ‥‥と」
 姿は見えていたが、和馬のいる所までは結構遠い。深緒は岩場を急いだ。
 そしてようやくたどり着く。
「和馬様?」
「ん、どうした?」
 深緒は和馬の隣に膝を抱えて座った。
 入り江の先まで伸びた岩場の端の先端。右も左も海しか見えず、まるで大海の真ん中にいる様に見える。波が当たる音と、風の音以外は何の音も聞こえない。ここがいつも和馬の、そして最近は二人の居場所であった。
 和馬はいつも黙って海を見つめていた。
「‥‥何を‥‥考えていたのですか?」
「深緒は前も同じ事を聞いたな」
「‥‥そうでしたでしょうか‥‥‥」
 深緒も言われて、海から空に目を移す。あの時は、空を眺めながら話していた事を思い出していたからである。
「変わらないんですね‥‥雲は‥‥‥」
「そうでもない、夏と違って薄く広がった雲が多くなっている。もう少しすればもっと違いがはっきりしてくる。毎年、同じだ」
「‥‥‥同じ‥‥ですか‥‥」
 ぼそっと呟く。
 深緒は組んだ両手に、傾けた頭をくっつけ、和馬の横顔を見た。
 もう少しすれば、秋が終わり、冬が来て、和馬はここを出て行く。それは既にない次郎との約束ではあったが、だからと言って破る事はしない事を、深緒は確信していた。
 残された自分はどうすればいいのか見当もつかず、その時の事を想像してぞっとした。
「‥‥いや、そうでもないな‥‥」
「‥‥‥‥‥‥」
 急に和馬がこっちに顔を向けたので、深緒は慌てて目を逸らした。
「深緒は大きくなったな。もう立派な大人だ」
「‥‥‥‥‥‥」
 何と答えて良いか分からずに、深緒は黙っていた。顔が赤くなったのが分かり、和馬の顔をまともに見る事が出来なかった。
 冬が過ぎて、春が来ても、和馬と離れたくはなかった。
「和馬様‥‥私‥‥春になったら、山に行ってみたい‥‥そこはね春に‥‥真っ白な君 影草がたくさん咲くの‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥」
 和馬は何も言わず、深緒は顔を曇らせる。
嫌な事を言ってる事は、承知していた。自分は何と嫌な奴なのかと‥‥‥。姉の言葉を守った様に、もしかしたらのわずかな希望であった。
「‥‥‥春に‥‥」
「‥‥行けたらいいな‥‥」
「‥‥はい‥‥」
 深緒には、それ以上何も言えなかった。




 それから月日は流れた。
 身を切る風の冷たさは、秋風の比ではない。
 直せる所は直したものの、隙間だらけの寺の中にも、容赦なく入り込んで来る。いつの間にそうなったのか、あまりにも自然で気付かぬ程である。
 そして、パラパラと小雪が降りだした朝‥‥‥。


「‥う‥‥ん‥‥」
 深緒はいつもと違う肌の感触に目が覚めた。
 布団の中に丸まっていても、首の辺りの隙間から、冷たい空気が入り込んで来る。
 布団に入ったまま手だけ出して、戸を開ける。
「‥‥何‥‥‥雪?‥」
 背中に背負った状態で、ごしごしと目を擦った。
 粗末な部屋の中にある物は、和馬に取り返してもらった裁縫箱が一つだけ。昨晩は馴れない手つきで縫っていた。
「‥‥‥‥‥‥」
 深緒は、鉢巻を手に取って眺めた。一生懸命にやったつもりではあったが、やはりあちこち縫い目が蛇行している。
‥‥喜んでくれるかな‥‥‥
 そっと頬に当ててみる。
 和馬には、わがままを言いっぱなしであったので、何かお礼をしたかった。だが自分があげれる物は何もなく、考えた末に結局手製の鉢巻になった。
 縫いながらも、月明かりだけで手元を照らしていたので‥‥という理由を色々考えていた。
「‥‥寒‥‥‥‥」
 思いきって布団から外に出てみると、予想以上に寒かった。白い息を、擦りあわせた両手に吹きかける。
 深緒は立ち上がって、隣の和馬の部屋の戸を静かに開けた。
「‥‥あれ?‥‥」
 和馬はいなかった。
 室内は整然としていた。昨日までクシャクシャになっていた和馬の布団まで、きちんと、三折りにたたんである。
 そしてその上に‥‥‥。
「‥‥‥‥」
 深緒は、かつて自分も握った事のある刀を持ち上げた。
 今まで和馬はどの様な時も手放したのを、見た事がない。何かが奇妙だった。
「‥‥‥‥」
 深緒は景庵の部屋にドカドカと走った。
 何も言わずに、ガラッと戸を開ける。
「‥‥‥ん、深緒か?」
 景庵は早朝にも関わらず、きちんとした身なりをして起きていた。
「か、和馬様は、何処に!?」
「‥‥‥座りなさい」
 景庵は、厳しい面もちで床の一隅を差し示した。
「‥‥‥‥‥‥」
 深緒は、両手をきつく握りしめて、はやる心を押さえて何とか座る。心臓の鼓動が早い。
「‥‥良く聞くのじゃ‥‥和馬はな‥‥」
「‥‥‥‥‥‥‥‥」
「‥‥和馬は旅に出た‥‥もうここには戻っては来ぬ」
「そ、そんな‥‥一体何処に⁈」
「深緒、和馬は自らの運命を、自らの手で結 論付けようとしておる。追ってはならぬ!」
「‥‥‥そんなの‥‥そんなのって‥‥」
 持ってきた和馬の刀を、膝の上でギュッと握った。その手が細かく震えている。
「‥よいな、深緒‥‥今は辛いだろうが、年を経れば、やがて忘れる。‥‥和馬は深緒に、誰よりも幸せになってほしいと‥‥‥」
「そんなのってない!」
 深緒は、驚く程の大声を出した。
「‥‥そんなのって‥‥私は、和馬様がいなきゃ、ちっとも幸せじゃないよ!」
 深緒はそれだけ言うと、部屋を飛び出した。
「深緒、何処に行く!」
 景庵の制止を聞かず、深緒は寺から出て行った。


write-comment-iconコメントを書く
write-comment-iconレビューを書く



comment-icon新着コメント



コメントはありません。投稿してみようっ!