3
ー/ー
父が姉たちのことも可愛がっていたのは知っている。ただ男はオレひとりだったし、いわゆる「男同士の秘密」を共有することは、父自身の楽しみでもあったようだ。
とにかく、父のようになりたかった。だから絵を描く姿もよく観察していたし、身振り手振りや喋り方まで少しずつ真似をしはじめる。オレが浅尾瑛士にそっくりだと言われるのは、無意識に真似る癖がついていたからだ。
「桔平。お前がこの先、どんな道を選ぶかは分かんねぇけどな。これだけは覚えておけ」
ある日、父がオレを膝の上に抱いて、真剣な表情で言った。
「完全なものだけを美と呼ぶ大人にはなるな。不完全に宿る美しさってのがあるんだ。そして人間は、不完全な生き物。だからこそ、愛しい気持ちが湧いてくるんだよ。完璧な満月より、繊月。真新しい漆椀より、使い込んで塗りが剥がれた椀のほうが粋だろ?」
「せんげつ?」
「細い月だ。明後日あたり見られるだろうよ。父ちゃんと一緒に、月見しような」
「うん」
「もうすぐこのホウセンカも枯れるが、また来年に新しい花を咲かせる。楽しみだな」
「そしたら、また絵描くよ」
「ああ、一緒に描こうな」
それが、父と過ごした最後の夏。その年の瀬に癌が見つかり、満開の桜が見守る季節に、父は自宅で眠るように旅立っていった。
大好きな父がいなくなってしまった衝撃は、幼心に耐えうるものではない。だからオレは、父が死ぬ前後の記憶をできるだけ封じ込めようとしていたらしい。ところどころ、記憶に曖昧な部分がある。悲しみに押し潰されないための、精一杯の抵抗だったのだろう。
それからオレは、父の部屋に籠ってひたすら絵を描いていた。そして描き上げたものを父の写真の前へ置く。また褒めてくれるかもしれない。そう思って描き続けた。
しかし、そのうちに気がつく。父はもう、自分に笑いかけてくれない。あの大きくて温かい手で、頭を撫で回してくれることはないということを。
その年も、庭のホウセンカが紅い花を咲かせた。ただ、もう父と一緒に眺めることはできない。絵を描くことはできない。オレは、父の部屋で泣き叫んだ。母や姉たちに宥められても止まらず、何時間も泣き続けた。
旅先の美しい景色に心打たれてひとりで涙を流したことはあるが、人前で泣いたのはこれが最後。泣かないのではなく、泣けない。きっと父の部屋で、一生分の涙を流してしまったからだ。
そう思っていたのに。そのはずなのに。あの花が当時と変わらぬ姿でそこに在るのを見た瞬間、堰を切ったように止まらなくなった。
まだリアクションはありません。最初の一歩を踏み出しましょう!
おすすめ作品を読み込み中です…
この作品と似た作品
似た傾向の作品は見つかりませんでした。
この作品を読んだ人が読んでいる作品
読者の傾向からおすすめできる作品がありませんでした。
おすすめ作品は現在準備中です。
おすすめ作品の取得に失敗しました。時間をおいて再度お試しください。
父が姉たちのことも可愛がっていたのは知っている。ただ男はオレひとりだったし、いわゆる「男同士の秘密」を共有することは、父自身の楽しみでもあったようだ。
とにかく、父のようになりたかった。だから絵を描く姿もよく観察していたし、身振り手振りや喋り方まで少しずつ真似をしはじめる。オレが浅尾瑛士にそっくりだと言われるのは、無意識に真似る癖がついていたからだ。
「桔平。お前がこの先、どんな道を選ぶかは分かんねぇけどな。これだけは覚えておけ」
ある日、父がオレを膝の上に抱いて、真剣な表情で言った。
「完全なものだけを美と呼ぶ大人にはなるな。不完全に宿る美しさってのがあるんだ。そして人間は、不完全な生き物。だからこそ、愛しい気持ちが湧いてくるんだよ。完璧な満月より、|繊月《せんげつ》。真新しい漆椀より、使い込んで塗りが剥がれた椀のほうが粋だろ?」
「せんげつ?」
「細い月だ。明後日あたり見られるだろうよ。父ちゃんと一緒に、月見しような」
「うん」
「もうすぐこのホウセンカも枯れるが、また来年に新しい花を咲かせる。楽しみだな」
「そしたら、また絵描くよ」
「ああ、一緒に描こうな」
それが、父と過ごした最後の夏。その年の瀬に癌が見つかり、満開の桜が見守る季節に、父は自宅で眠るように旅立っていった。
大好きな父がいなくなってしまった衝撃は、幼心に耐えうるものではない。だからオレは、父が死ぬ前後の記憶をできるだけ封じ込めようとしていたらしい。ところどころ、記憶に曖昧な部分がある。悲しみに押し潰されないための、精一杯の抵抗だったのだろう。
それからオレは、父の部屋に籠ってひたすら絵を描いていた。そして描き上げたものを父の写真の前へ置く。また褒めてくれるかもしれない。そう思って描き続けた。
しかし、そのうちに気がつく。父はもう、自分に笑いかけてくれない。あの大きくて温かい手で、頭を撫で回してくれることはないということを。
その年も、庭のホウセンカが紅い花を咲かせた。ただ、もう父と一緒に眺めることはできない。絵を描くことはできない。オレは、父の部屋で泣き叫んだ。母や姉たちに宥められても止まらず、何時間も泣き続けた。
旅先の美しい景色に心打たれてひとりで涙を流したことはあるが、人前で泣いたのはこれが最後。泣かないのではなく、泣けない。きっと父の部屋で、一生分の涙を流してしまったからだ。
そう思っていたのに。そのはずなのに。あの花が当時と変わらぬ姿でそこに在るのを見た瞬間、堰を切ったように止まらなくなった。