日常の喪失

ー/ー



 クラスメイトたちが、我先にとカバンやリュックを持って教室から飛び出していく。

——これからしばらくは、日が落ちる前に帰れ。

 あれから二日。私は、あの子の言いつけを守って日没前には帰っていた。今のところは、特に何も起きていない。返却された英単語テストも、いつもと変わり映えしない点数だ。
 宙ぶらりんの気持ちを吐き出すように、机の上で突っ伏した。

「部室、そろそろ行かないと……」

 体を起こそうとした瞬間、突然誰かに両肩を掴まれた。後ろからギューッと強く揉まれる。

「わっ」
「どしたの藍果! オープンキャンパスの行き先、決められないって前言ってたけど。どこにしたか聞いてもいい?」
「えっと、とりあえず一番近くの大学にしたよ。どっかは書かないといけないし」
「えー、なにそれ。どうせなら東大って書いときなよ」
「そんな簡単に言われても……この前の中間テスト、学年一位だったんでしょ? すごいよ」
「まぁね。勉強してるし」

 背中に()こうとしてきたお化け、もとい友だちは、同じ部活の鳴井(なるい)瀬名だった。

 瀬名とは中学生の頃からの仲だ。地頭が良く、記憶力もいい。その上、勉強する才能——忍耐力と自制心に恵まれている。親からもかなり期待されているはずだが、あまりしんどそうな顔をしないのもすごい。

 ただ、その指先には赤いマニキュアが塗られている。ガーネットのように上品な輝きは、瀬名によく似合っている……が、実は校則違反だ。

「ねぇ見て、このアイシャドウ。トレンドカラーなんだってさ」

 校則違反その二。ぱっちりとした二重の(まぶた)には、血色をよく見せるラメ入りカラーが乗せられていた。長いまつげは生まれつきらしいが、瀬名はこうしてところどころ校則を破っている。先生は見てみぬふりをしているし、他の生徒だって色つきリップを塗っていたりするから注意したりはしない。

 私はにっこりと瀬名に笑いかけた。

「かわいい。似合ってる」
「え、嬉しいー! 藍果好き!」
 
 抱きつかれる。その体にギュッと腕を回してから体を離した。
 瀬名は中学生の頃から真面目で、こうして校則破りをするようになったのは最近のことだ。でも、このおしゃれが瀬名の心のバランスを保ってくれているんだと思っている。

「ねぇ瀬名、部室で見せたいものがあるの」


***

 デスクトップ型パソコンが並ぶ情報室B。ここが、うちの新聞部に割り当てられた部室だ。広さは情報室Aの半分ほどだが、これで十分間に合っている。
 瀬名をカウンターの裏に呼び、その中に潜り込んだ。他の部員が来るまで、あと五分はある。

「で、見せたいものって」
「それが……」

 スカートのポケットから、あの短刀を取り出した。実際に測ってみたところ、長さは二十三センチ。ネットで調べてみたが、これは匕首(あいくち)と言って、(つば)がなくピッタリ合わさるタイプの短刀らしい。

 問題は、これを持っていると銃刀法違反になってしまうこと。もしバレたら、高校二年にして逮捕。正直、絶対に避けたい事案だ。

「これ、通りすがりの人に、お礼としてもらった刀……なんだけど。警察に届けた方がいいのは分かってるの、でも」
「ちょっと待って。藍果の手の上、何も見えない」
「えっ?」

 私の右手には、例の短刀が乗せられている。それなのに、瀬名はこれが見えないと言う。

「持ってみる?」
「うん」

 瀬名の細く白い手に、ずっしりとした守り刀を乗せる。瀬名は、小さく息を呑んだ。

「……重さは感じる。何なのこれ」

  整った眉をひそめ、珍しく険しい目つきで私を見た。私は視線を落とし、膝の上で拳を作る。説明したいのは山々だが、信じてもらえるかどうか。

 迷いつつも口を開こうとしたそのとき、ガラガラガラ! と大きな音が遮った。

「お疲れ様です。あれ、藍果先輩に瀬名先輩……逢引(あいび)き中でしたか。失礼しました」

 カウンターから首を伸ばして入口の方を見る。そこには、新聞部唯一の後輩、樫野(かしの)(あや)が立っていた。お察しの通り、うちの部活は常時絶賛部員募集中だ。

「そ~なんだよアヤちゃん。藍果さ、なんか知らない人から変なもの受け取っててさ、隠してたわけ。気にくわないよねぇ」
「え、や、違うから! これはほら、相談事があって」
「じゃ、お邪魔します」

 アヤは、心底どうでもよさそうに切れ長の目を細めた。きっちりとドアを閉め、いつもの席に座ってパソコンの電源をつける。

 他のメンバーは幽霊部員と化していたり、たまにしか来なかったりと適当だが、アヤは毎回来てくれる。入部してから一月もたたないうちに、ほとんどの仕事を覚えてしまった。しかも、画像編集やレイアウトがとにかく上手くて、色選びのセンスも良い。

「それで、編集した春季大会の写真をクラウドに上げておいたんですけど。ちょっと見てもらってもいいですか」
「あ、あぁごめんごめん、今チェックするね」

 一度作業を始めてしまうと、あっという間に時間が過ぎる。次に時計を見たのは、完全下校時刻を知らせるチャイムが鳴った後のことだった。

 もう、外はすっかり暗い。


***


「ねぇ瀬名、忘れてたんだけど……あの刀、返してもらってもいい?」

 アヤは用事があると言ってダッシュで帰っていったが、私は瀬名と一緒に歩いていた。五月といえど、夜七時を過ぎれば辺りは暗い。横断歩道の信号が赤に変わり、私達は足を止める。

 日は、完全に落ちていた。

「返せない」
「……え」

 瀬名はスカートの上から手を重ね、ポケットの辺りを強く(にぎ)りしめる。おそらく、そこにあの短刀を入れているのだろう。

「それがないと、困るの……瀬名。特に、日が落ちた後は必ず持っているようにって、それを渡してくれた子が言ったの」

 作業に熱中して、つい預けたままにしてしまった私が百パーセント悪い。でも、あの子から渡された大事な物だ。薄雲に映る夕焼けの残り火が、橙から薄紫へと移ろっていく。
 顔を上げ、瀬名は私のことをじっと見つめた。大きな瞳が、揺れることなく私を映す。

「教えて、藍果。話の続き、教えてくれたら返すから。お願い」
「瀬名……」

 きっと瀬名は、私のことを試している。本当に困っているのなら、この場で教えてくれるはずだと。瀬名は、私に隠し事をされるのが嫌なのだ。

 ふと、違和感を覚えて横断歩道の向こうを見た。いつもなら、一分ほどで青に変わるはずの歩行者用信号機。

「ね、ねぇ瀬名。あれ」
「なに?」

 す、と横断歩道の向こうを指差す。
 赤色の光が二つ、煌々(こうこう)と輝いていた。両手を横に揃え、「止まれ」を表す信号機の光。それが、上にも下にも灯っている。瀬名が、スマホのレンズをそれに向けた。

「藍果。あの光、上一つしか映らないよ」
「な……」

 突如、背後から石の割れるような音がした。コンクリートの欠片が転がり、何かが足に絡みつく。全身に鳥肌が立ち、悲鳴も上げられずに硬直した。

 バラの茎よりも太い、蔦のようなもの。それが、足首から膝、膝から太腿(ふともも)へと巻きつきながら()い上がってくる。薄暗がりに目を()らせば、それは割れた地面の隙間(すきま)から伸びていた。(とげ)がざくざくと薄い皮膚に突き刺さり、鋭い痛みが体を走る。

「瀬名っ、あの刀、渡して……っ!」

 脳裏には、あの水色の長い(そで)がひらめいていた。きっとあの子は、こうなることを予見して。

「きゃあぁぁっ、い、いやっ……!」

 瀬名が私の脚を見て叫び、スカートから出した短刀を放り投げた。(さや)が外れ、露出した(やいば)が外灯の光を反射する。

 ざん、と。

 一陣(いちじん)の風が蔦の化け物を断ち切って、誰かが背後に降り立った。巻きついていた蔦ははらはらと枯れ落ち、忽然(こつぜん)と姿を消してしまう。

 振り返らなくても分かる。あの子だ。歩道橋で出会ったあの少年が、私のことを助けてくれた。

 ドッと肩の力が抜けて、頭の中がぐるぐると回るような感覚に襲われる。それは貧血のときのめまいにも似ていた。

「藍果」

 瀬名の声が夜道に(ひび)く。食い入るように私の脚を見つめ、こわばった顔で言葉を続ける。

「私に聞こえたのは、何かが砕けて割れる音。それから、植物が()れ合うような音。その後、藍果の脚にいくつも刺し傷がついて、どんどん血が流れてきて……」

 (ふる)える指先を隠すように、瀬名はその手を背後に回した。信号は元に戻っていて、青い光が一つだけ灯っている。ここを渡った先の角に、瀬名の通う塾がある。

「ごめん。私、怖い……!」

 そう言って、瀬名はバッと背を向け走り出した。

「待って、痛っ」

 追いかけようと思っても、足の痛みはどんどん増してくる。見れば、つたい落ちた血が白い靴下を染めていた。さっきの化け物は何なのか、瀬名にどう説明したらいいのか。頭の中がいっぱいになって、私は地面にしゃがみ込んだ。

「なんでっ、こんな……!」
「藍果。立て」

 目の前に影が差して、聞き覚えのある声が降ってきた。顔を上げれば、そこにいたのは和服姿の男の子。
 
 細く短めの眉はキッと吊り上がっていて、目元には涼やかな品があった。下まつげの影が濃く、目尻や粘膜(ねんまく)に差した赤みは不思議な色気を感じさせる。虹彩には、金色の薄片(はくへん)がちらちらと混ざっていて。

「忠告、破っただろ」

 血色のいい唇を引き結び、怒った顔で私を見下ろしていた。二日前、あの歩道橋で出会った少年だった。


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 クラスメイトたちが、我先にとカバンやリュックを持って教室から飛び出していく。
——これからしばらくは、日が落ちる前に帰れ。
 あれから二日。私は、あの子の言いつけを守って日没前には帰っていた。今のところは、特に何も起きていない。返却された英単語テストも、いつもと変わり映えしない点数だ。
 宙ぶらりんの気持ちを吐き出すように、机の上で突っ伏した。
「部室、そろそろ行かないと……」
 体を起こそうとした瞬間、突然誰かに両肩を掴まれた。後ろからギューッと強く揉まれる。
「わっ」
「どしたの藍果! オープンキャンパスの行き先、決められないって前言ってたけど。どこにしたか聞いてもいい?」
「えっと、とりあえず一番近くの大学にしたよ。どっかは書かないといけないし」
「えー、なにそれ。どうせなら東大って書いときなよ」
「そんな簡単に言われても……この前の中間テスト、学年一位だったんでしょ? すごいよ」
「まぁね。勉強してるし」
 背中に|憑《つ》こうとしてきたお化け、もとい友だちは、同じ部活の|鳴井《なるい》瀬名だった。
 瀬名とは中学生の頃からの仲だ。地頭が良く、記憶力もいい。その上、勉強する才能——忍耐力と自制心に恵まれている。親からもかなり期待されているはずだが、あまりしんどそうな顔をしないのもすごい。
 ただ、その指先には赤いマニキュアが塗られている。ガーネットのように上品な輝きは、瀬名によく似合っている……が、実は校則違反だ。
「ねぇ見て、このアイシャドウ。トレンドカラーなんだってさ」
 校則違反その二。ぱっちりとした二重の|瞼《まぶた》には、血色をよく見せるラメ入りカラーが乗せられていた。長いまつげは生まれつきらしいが、瀬名はこうしてところどころ校則を破っている。先生は見てみぬふりをしているし、他の生徒だって色つきリップを塗っていたりするから注意したりはしない。
 私はにっこりと瀬名に笑いかけた。
「かわいい。似合ってる」
「え、嬉しいー! 藍果好き!」
 抱きつかれる。その体にギュッと腕を回してから体を離した。
 瀬名は中学生の頃から真面目で、こうして校則破りをするようになったのは最近のことだ。でも、このおしゃれが瀬名の心のバランスを保ってくれているんだと思っている。
「ねぇ瀬名、部室で見せたいものがあるの」
***
 デスクトップ型パソコンが並ぶ情報室B。ここが、うちの新聞部に割り当てられた部室だ。広さは情報室Aの半分ほどだが、これで十分間に合っている。
 瀬名をカウンターの裏に呼び、その中に潜り込んだ。他の部員が来るまで、あと五分はある。
「で、見せたいものって」
「それが……」
 スカートのポケットから、あの短刀を取り出した。実際に測ってみたところ、長さは二十三センチ。ネットで調べてみたが、これは|匕首《あいくち》と言って、|鍔《つば》がなくピッタリ合わさるタイプの短刀らしい。
 問題は、これを持っていると銃刀法違反になってしまうこと。もしバレたら、高校二年にして逮捕。正直、絶対に避けたい事案だ。
「これ、通りすがりの人に、お礼としてもらった刀……なんだけど。警察に届けた方がいいのは分かってるの、でも」
「ちょっと待って。藍果の手の上、何も見えない」
「えっ?」
 私の右手には、例の短刀が乗せられている。それなのに、瀬名はこれが見えないと言う。
「持ってみる?」
「うん」
 瀬名の細く白い手に、ずっしりとした守り刀を乗せる。瀬名は、小さく息を呑んだ。
「……重さは感じる。何なのこれ」
  整った眉をひそめ、珍しく険しい目つきで私を見た。私は視線を落とし、膝の上で拳を作る。説明したいのは山々だが、信じてもらえるかどうか。
 迷いつつも口を開こうとしたそのとき、ガラガラガラ! と大きな音が遮った。
「お疲れ様です。あれ、藍果先輩に瀬名先輩……|逢引《あいび》き中でしたか。失礼しました」
 カウンターから首を伸ばして入口の方を見る。そこには、新聞部唯一の後輩、|樫野《かしの》|彩《あや》が立っていた。お察しの通り、うちの部活は常時絶賛部員募集中だ。
「そ~なんだよアヤちゃん。藍果さ、なんか知らない人から変なもの受け取っててさ、隠してたわけ。気にくわないよねぇ」
「え、や、違うから! これはほら、相談事があって」
「じゃ、お邪魔します」
 アヤは、心底どうでもよさそうに切れ長の目を細めた。きっちりとドアを閉め、いつもの席に座ってパソコンの電源をつける。
 他のメンバーは幽霊部員と化していたり、たまにしか来なかったりと適当だが、アヤは毎回来てくれる。入部してから一月もたたないうちに、ほとんどの仕事を覚えてしまった。しかも、画像編集やレイアウトがとにかく上手くて、色選びのセンスも良い。
「それで、編集した春季大会の写真をクラウドに上げておいたんですけど。ちょっと見てもらってもいいですか」
「あ、あぁごめんごめん、今チェックするね」
 一度作業を始めてしまうと、あっという間に時間が過ぎる。次に時計を見たのは、完全下校時刻を知らせるチャイムが鳴った後のことだった。
 もう、外はすっかり暗い。
***
「ねぇ瀬名、忘れてたんだけど……あの刀、返してもらってもいい?」
 アヤは用事があると言ってダッシュで帰っていったが、私は瀬名と一緒に歩いていた。五月といえど、夜七時を過ぎれば辺りは暗い。横断歩道の信号が赤に変わり、私達は足を止める。
 日は、完全に落ちていた。
「返せない」
「……え」
 瀬名はスカートの上から手を重ね、ポケットの辺りを強く|握《にぎ》りしめる。おそらく、そこにあの短刀を入れているのだろう。
「それがないと、困るの……瀬名。特に、日が落ちた後は必ず持っているようにって、それを渡してくれた子が言ったの」
 作業に熱中して、つい預けたままにしてしまった私が百パーセント悪い。でも、あの子から渡された大事な物だ。薄雲に映る夕焼けの残り火が、橙から薄紫へと移ろっていく。
 顔を上げ、瀬名は私のことをじっと見つめた。大きな瞳が、揺れることなく私を映す。
「教えて、藍果。話の続き、教えてくれたら返すから。お願い」
「瀬名……」
 きっと瀬名は、私のことを試している。本当に困っているのなら、この場で教えてくれるはずだと。瀬名は、私に隠し事をされるのが嫌なのだ。
 ふと、違和感を覚えて横断歩道の向こうを見た。いつもなら、一分ほどで青に変わるはずの歩行者用信号機。
「ね、ねぇ瀬名。あれ」
「なに?」
 す、と横断歩道の向こうを指差す。
 赤色の光が二つ、|煌々《こうこう》と輝いていた。両手を横に揃え、「止まれ」を表す信号機の光。それが、上にも下にも灯っている。瀬名が、スマホのレンズをそれに向けた。
「藍果。あの光、上一つしか映らないよ」
「な……」
 突如、背後から石の割れるような音がした。コンクリートの欠片が転がり、何かが足に絡みつく。全身に鳥肌が立ち、悲鳴も上げられずに硬直した。
 バラの茎よりも太い、蔦のようなもの。それが、足首から膝、膝から|太腿《ふともも》へと巻きつきながら|這《は》い上がってくる。薄暗がりに目を|凝《こ》らせば、それは割れた地面の|隙間《すきま》から伸びていた。|棘《とげ》がざくざくと薄い皮膚に突き刺さり、鋭い痛みが体を走る。
「瀬名っ、あの刀、渡して……っ!」
 脳裏には、あの水色の長い|袖《そで》がひらめいていた。きっとあの子は、こうなることを予見して。
「きゃあぁぁっ、い、いやっ……!」
 瀬名が私の脚を見て叫び、スカートから出した短刀を放り投げた。|鞘《さや》が外れ、露出した|刃《やいば》が外灯の光を反射する。
 ざん、と。
 |一陣《いちじん》の風が蔦の化け物を断ち切って、誰かが背後に降り立った。巻きついていた蔦ははらはらと枯れ落ち、|忽然《こつぜん》と姿を消してしまう。
 振り返らなくても分かる。あの子だ。歩道橋で出会ったあの少年が、私のことを助けてくれた。
 ドッと肩の力が抜けて、頭の中がぐるぐると回るような感覚に襲われる。それは貧血のときのめまいにも似ていた。
「藍果」
 瀬名の声が夜道に|響《ひび》く。食い入るように私の脚を見つめ、こわばった顔で言葉を続ける。
「私に聞こえたのは、何かが砕けて割れる音。それから、植物が|擦《す》れ合うような音。その後、藍果の脚にいくつも刺し傷がついて、どんどん血が流れてきて……」
 |震《ふる》える指先を隠すように、瀬名はその手を背後に回した。信号は元に戻っていて、青い光が一つだけ灯っている。ここを渡った先の角に、瀬名の通う塾がある。
「ごめん。私、怖い……!」
 そう言って、瀬名はバッと背を向け走り出した。
「待って、痛っ」
 追いかけようと思っても、足の痛みはどんどん増してくる。見れば、つたい落ちた血が白い靴下を染めていた。さっきの化け物は何なのか、瀬名にどう説明したらいいのか。頭の中がいっぱいになって、私は地面にしゃがみ込んだ。
「なんでっ、こんな……!」
「藍果。立て」
 目の前に影が差して、聞き覚えのある声が降ってきた。顔を上げれば、そこにいたのは和服姿の男の子。
 細く短めの眉はキッと吊り上がっていて、目元には涼やかな品があった。下まつげの影が濃く、目尻や|粘膜《ねんまく》に差した赤みは不思議な色気を感じさせる。虹彩には、金色の|薄片《はくへん》がちらちらと混ざっていて。
「忠告、破っただろ」
 血色のいい唇を引き結び、怒った顔で私を見下ろしていた。二日前、あの歩道橋で出会った少年だった。