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ー/ー




「弥生!」


 玄関のドアを勢いよく開けて弥生の名前を呼ぶが、返事は帰ってこない。
 それにほっとしたのか、それともショックだったのか、自分の気持ちが分からなかった俺は膝に手をつき、乱れている息と心を整えるために大きく息を吸う。

 こんなに全速力で走ったのなんて、いつぶりだろう。顎まで伝う汗がポタッと床に落ちたことによって下を向いていて閉じていた目を開けると弥生の靴があることに気づき、耳を澄ませればテレビの音が微かに聞こえてくる。
 こんな時にでも弥生は俺の帰りを待ってくれていたんだと思うと嬉しくて、そして罪悪感に心がこれでもかというくらい押し潰されそうになりながらもゆっくりと家の中に入る。


 けれど、そこで気づく。
 リビングのドアが閉まっていないことに。

 そして、もう一つ気づいたことがある。

 自分が、鍵を使ってこの家に入ってきていないことに。


 慌てるようにリビングに足を踏み入れると、家を出て行った時と同じままの部屋の様子が目に飛び込んできた。

 胸騒ぎを覚えた俺は弥生に電話をかけるけど弥生は出ない。
 ぞくりと背筋に走る悪寒に動けなくなっていると、握っているスマートフォンから突然大音量で鳴り出した着信音に驚く。

 マナーモードにしていたはずなのに……と思いながら画面に視線を向ければまた兄の湊からで、しつこいと無意識に呟いていた俺はようやく電話に出る。


「なに? 今忙しいんだけど」

「今まで何してたんだよッ!」


 怒鳴るような、そんな湊の声を聞いたことがなかった俺は、驚きすぎて思わずスマートフォンを落としそうになる。


「え、なに……?」

「こんな大変な時に何してたんだよ!」

「大変ってなにが?」

「……お前、とりあえず喪服着て××斎場に来い」

「は? なんでそんな所に……」


 ──誰が亡くなったんだよ。

 そんな俺の言葉に被せるように言った湊の言葉に、俺は耳を疑った。


「弥生ちゃんが亡くなったんだよ」


 息が詰まり、心臓は一度止まったような感覚に陥った。


「……は?」

「弥生ちゃんの通夜があと1時間で始まるんだよ。俺らは早めにいないといけないから、早く来な」

「待って、ちょっと待ってよ……意味が分からないんだけど。なに……弥生が死んだって……」

「……腹膜炎で亡くなったんだよ」


 馴染みのない病名を聞かされても、頭が追いつくわけもない。
 だって、弥生が死んだなんて……突然言われても信じられないだろ。

 2日前、ここで話し合っていて。泣いた顔も、怒った顔も全て鮮明に覚えていて。今までと何も変わらず、弥生は此処にいた。

 それだというのに、誰がそんな言葉を信じるんだよ。


「冗談やめてよ。今そんな冗談」

「冗談? 冗談でこんな不謹慎なこと言えないだろ……!」


 ──私だって……病気なのに
 そう言った弥生の言葉が頭の中に流れる。

 ──嘘じゃ……嘘じゃない
 必死になって否定していた。泣きながら、凄く必死に。
 
 それを俺は信じもせず、バッサリと勢いよく切り捨てた。
 湊の言う通り、冗談なんかで弥生があんなこと言わない。冷静に考えれば分かることだというのに、それなのに俺は……なんてことを。


「弥生ちゃんを看取ったのは俺だよ……なぁ、本当はその役目、お前なんじゃないの?」


 湊の言葉で、少しずつだけど弥生が亡くなったことが現実味を帯びていく。
 受け入れるのが嫌で力一杯目を閉じるけど、そのせいで湊の声を耳がより鮮明に拾い上げる。


「弥生ちゃん、うつ病にもなってたんだね」

「うつ、病……?」

「先生から聞いたけど、安定剤って飲んでると副作用で太っちゃうみたい。弥生ちゃんも飲んでたのに凄く細かったから我慢するのを頑張り過ぎたんだねって言っててさ、それで納得したというか……」


 吸い込んだ息が揺れ、吐き出す行為をせずに俺は息を止めた。


「弘樹、お前……弥生ちゃんに何を我慢させてたの?」


 心当たりがあり過ぎて、面白いことに全く声が出ない。
 口をパクパクとさせ、口から漏れる小さな音を電話越しで聞いていた湊は、ため息とはまた違った息を小さく吐いた。


「……電話切るよ。俺たちはもう斎場にいるから早く来な」


 電話を切られた俺はその場に膝から崩れ落ちそうになるが、必死に踏み止まった。

 もうずっと、動悸がしている。気持ち悪い胸に手を当てながら必死になってその場から足を動かせば、痛みはさほど感じなかったが、硬い何かを踏んだ。何かと思って視線を床に落とすと、そこには錠剤が落ちていた。え、という声が漏れると同時に、落ちている錠剤は一つだけではないということに気づく。

 数個なんてもんじゃない。大量の錠剤が落ちていた。

 湊が言っていた弥生がうつ病だと、安定剤を飲んでいたという事実。
 弥生が言っていた自分も病気ということが視界に入っている錠剤を見て俺はやっと、カチッとピースがはまった。

 俺はまた小さく声を漏らした後、そういえば……と思って弥生が『ここは絶対開けないで』と言っていた棚に視線を向ける。棚から何かがはみ出してて、おぼつかない足取りで棚に向かい、震える手で棚を開けてみれば、弥生の名前が書かれた薬袋が何袋もあって、中身を覗けば大量の薬が入っていた。

 もしかして、最近ぼーっとしていたのも、あまり笑わなくなったのも、この薬のせい?
 いや……俺のせいでもあるけれど、少なくともこの薬たちも関係しているのには変わりなくて。


「俺はなんてことを……」


 俺はやっと、自分がしてしまった罪の重さに気づいた。
 不安定になるくらい後悔が押し寄せ、薬袋を棚に戻した俺は喪服に着替えて、足がもつれながらも急いで言われた斎場へと向かった。



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「弥生!」
 玄関のドアを勢いよく開けて弥生の名前を呼ぶが、返事は帰ってこない。
 それにほっとしたのか、それともショックだったのか、自分の気持ちが分からなかった俺は膝に手をつき、乱れている息と心を整えるために大きく息を吸う。
 こんなに全速力で走ったのなんて、いつぶりだろう。顎まで伝う汗がポタッと床に落ちたことによって下を向いていて閉じていた目を開けると弥生の靴があることに気づき、耳を澄ませればテレビの音が微かに聞こえてくる。
 こんな時にでも弥生は俺の帰りを待ってくれていたんだと思うと嬉しくて、そして罪悪感に心がこれでもかというくらい押し潰されそうになりながらもゆっくりと家の中に入る。
 けれど、そこで気づく。
 リビングのドアが閉まっていないことに。
 そして、もう一つ気づいたことがある。
 自分が、鍵を使ってこの家に入ってきていないことに。
 慌てるようにリビングに足を踏み入れると、家を出て行った時と同じままの部屋の様子が目に飛び込んできた。
 胸騒ぎを覚えた俺は弥生に電話をかけるけど弥生は出ない。
 ぞくりと背筋に走る悪寒に動けなくなっていると、握っているスマートフォンから突然大音量で鳴り出した着信音に驚く。
 マナーモードにしていたはずなのに……と思いながら画面に視線を向ければまた兄の湊からで、しつこいと無意識に呟いていた俺はようやく電話に出る。
「なに? 今忙しいんだけど」
「今まで何してたんだよッ!」
 怒鳴るような、そんな湊の声を聞いたことがなかった俺は、驚きすぎて思わずスマートフォンを落としそうになる。
「え、なに……?」
「こんな大変な時に何してたんだよ!」
「大変ってなにが?」
「……お前、とりあえず喪服着て××斎場に来い」
「は? なんでそんな所に……」
 ──誰が亡くなったんだよ。
 そんな俺の言葉に被せるように言った湊の言葉に、俺は耳を疑った。
「弥生ちゃんが亡くなったんだよ」
 息が詰まり、心臓は一度止まったような感覚に陥った。
「……は?」
「弥生ちゃんの通夜があと1時間で始まるんだよ。俺らは早めにいないといけないから、早く来な」
「待って、ちょっと待ってよ……意味が分からないんだけど。なに……弥生が死んだって……」
「……腹膜炎で亡くなったんだよ」
 馴染みのない病名を聞かされても、頭が追いつくわけもない。
 だって、弥生が死んだなんて……突然言われても信じられないだろ。
 2日前、ここで話し合っていて。泣いた顔も、怒った顔も全て鮮明に覚えていて。今までと何も変わらず、弥生は此処にいた。
 それだというのに、誰がそんな言葉を信じるんだよ。
「冗談やめてよ。今そんな冗談」
「冗談? 冗談でこんな不謹慎なこと言えないだろ……!」
 ──私だって……病気なのに
 そう言った弥生の言葉が頭の中に流れる。
 ──嘘じゃ……嘘じゃない
 必死になって否定していた。泣きながら、凄く必死に。
 それを俺は信じもせず、バッサリと勢いよく切り捨てた。
 湊の言う通り、冗談なんかで弥生があんなこと言わない。冷静に考えれば分かることだというのに、それなのに俺は……なんてことを。
「弥生ちゃんを看取ったのは俺だよ……なぁ、本当はその役目、お前なんじゃないの?」
 湊の言葉で、少しずつだけど弥生が亡くなったことが現実味を帯びていく。
 受け入れるのが嫌で力一杯目を閉じるけど、そのせいで湊の声を耳がより鮮明に拾い上げる。
「弥生ちゃん、うつ病にもなってたんだね」
「うつ、病……?」
「先生から聞いたけど、安定剤って飲んでると副作用で太っちゃうみたい。弥生ちゃんも飲んでたのに凄く細かったから我慢するのを頑張り過ぎたんだねって言っててさ、それで納得したというか……」
 吸い込んだ息が揺れ、吐き出す行為をせずに俺は息を止めた。
「弘樹、お前……弥生ちゃんに何を我慢させてたの?」
 心当たりがあり過ぎて、面白いことに全く声が出ない。
 口をパクパクとさせ、口から漏れる小さな音を電話越しで聞いていた湊は、ため息とはまた違った息を小さく吐いた。
「……電話切るよ。俺たちはもう斎場にいるから早く来な」
 電話を切られた俺はその場に膝から崩れ落ちそうになるが、必死に踏み止まった。
 もうずっと、動悸がしている。気持ち悪い胸に手を当てながら必死になってその場から足を動かせば、痛みはさほど感じなかったが、硬い何かを踏んだ。何かと思って視線を床に落とすと、そこには錠剤が落ちていた。え、という声が漏れると同時に、落ちている錠剤は一つだけではないということに気づく。
 数個なんてもんじゃない。大量の錠剤が落ちていた。
 湊が言っていた弥生がうつ病だと、安定剤を飲んでいたという事実。
 弥生が言っていた自分も病気ということが視界に入っている錠剤を見て俺はやっと、カチッとピースがはまった。
 俺はまた小さく声を漏らした後、そういえば……と思って弥生が『ここは絶対開けないで』と言っていた棚に視線を向ける。棚から何かがはみ出してて、おぼつかない足取りで棚に向かい、震える手で棚を開けてみれば、弥生の名前が書かれた薬袋が何袋もあって、中身を覗けば大量の薬が入っていた。
 もしかして、最近ぼーっとしていたのも、あまり笑わなくなったのも、この薬のせい?
 いや……俺のせいでもあるけれど、少なくともこの薬たちも関係しているのには変わりなくて。
「俺はなんてことを……」
 俺はやっと、自分がしてしまった罪の重さに気づいた。
 不安定になるくらい後悔が押し寄せ、薬袋を棚に戻した俺は喪服に着替えて、足がもつれながらも急いで言われた斎場へと向かった。