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【1】②

ー/ー



 あのあと。
 何食わぬ顔で父と共に部屋に戻り、仕切り直すかのように娘に大袈裟なほどの褒め言葉を掛けた。

「ぱぱ。ゆき、つめたい、……ぎゅ、ってした」
 はにかむような笑顔で話す真理愛に胸を撫で下ろし、とりあえずその場は収まった、と思っていた。

「……真理愛は雪なんて見たことないだろうから、楽しかったんだろうなぁ。いや、でも怖がったりしなかった?」
 娘を寝かしつけてリビングルームに戻った圭亮の言葉に母があっさり答える。

「ううん、雪自体は知ってたみたいよ。ずっと部屋の中だったからって別に動けなかったわけじゃないんだから、窓から雨も雪も見てたでしょ」
「ああ……」
 むしろ一人であの部屋にいたら、外を見るくらいしかすることはなかったのかもしれない。
 かつての恋人だった今日子(きょうこ)が、別れたあとで圭亮には黙って産んで一人で育てていた娘。

 四歳九か月で今日子が薬を飲んで死ぬまで、真理愛は彼女と二人で古く狭いマンションの一室で暮らしていた。
 母親の最期の瞬間まで、同じ部屋でずっと。
 ほとんど外に出ることもなく、今日子が出掛けている間はたった一人残されるのが常態だったらしい。
 母親の死後、初めて会った父親である圭亮に引き取られて彼女はこの家に来た。
 最初は泣きも笑いもせず、言葉も出ない状態だった娘。
 しかし五歳の誕生日を迎えた去年のクリスマスから、真理愛は少しずつ言葉を発するようになって来ていたのだ。

「今までに見たことはあって『雪』だっていうのは知ってても、実際に触れたことはなかったのね。外に出ていざどういうものかわかったら、びっくりしたみたいに戸惑ってたわ」
「そっか。『白いひらひら降ってくるもの』が冷たいなんて、知らなかったら想像もつかないよな」
 咄嗟に「冷たい」という言葉は出なくても、驚きを表情や仕草で表したことだろう。
 ただでさえ大きな目を見開いて、祖父母の顔を仰ぎ見る真理愛の姿が目に浮かぶようだ。

「お父さんと二人でなるべく汚れてない雪だけ集めたのよ。塀や枝やらの上に積もったのとかね。それから作ったんだけど、湿った雪だからすぐ()けて手袋にも沁み込んじゃって。手が冷たいでしょうに嬉しそうでねぇ。無理にでもやめさせた方がいいのかってハラハラしたわ」
 孫娘との雪遊びを語る、母の弾んだ声。

「確かにちゃんと真ん丸じゃなくて(いびつ)だし、玉に固めるのも弱いけど。『綺麗に作る』のが目的じゃないから、大人が手を入れ過ぎたら意味ないでしょ」
「真理愛はまだ手も小さいし、力の入れ具合もわかんないだろうしな。そういうのもこれからだんだん慣れて行くのか」
 手袋をはめた小さな手でぎこちなく雪玉を作る娘を想像し、微笑ましい気分になった。
 ……ほんの束の間。

「圭亮が帰るのをリビングで私たちと待ってる間も、一人で何度もキッチンの冷蔵庫の前まで行ってたのよ。きっと真理愛ちゃんは、初めて作った雪だるまをパパに見せたかったんだと思うわ」 
 静かに紡がれた母の台詞が心に突き刺さる。
 そうだ。
 雪だるまに限った話ではなく、娘がその手で『何かを作る』のは初めてなのではないか。
 それを自分は「こんなもの、食べ物と一緒に入れたら汚いだろ」としか感じなかった。

「パパに見せたかったのよ」
 帰宅して顔を合わせた際の娘の最初の言葉も、「ゆき」ではなく「ぱぱ」だった。
 ──真理愛の純粋な想いの籠った真っ白な雪のオブジェを、故意でないにしろ土足で踏み潰してしまったようで居たたまれない。

 生まれた日も、初めて立った、歩いた日も、話し出した瞬間も。
 圭亮は娘の人生の節目を、何一つこの()で見たことはなかった。
 彼女の存在自体が未知だったので当然だ。

 だからこそこの先の真理愛の『初めて』は、ひとつ残らずその場で確かめて喜びたいと思っていたのに。
 結局そんなものは単なる表向きの形ばかりだったと、己の浅さや薄さが露呈してしまった気がする。

「母さん。俺、俺は──」
「あなたに悪気がなかったのなんてお父さんも、もちろん私もわかってるから。実際には傷つけるようなこと言わなかったんだし、そこまで気にする必要ないわ」
 微かに震える声に圭亮の後悔を悟ったのか、母は穏やかに言い聞かせるように慰めてくれた。

「小さい子がいたら、どうしたって家は散らかるし汚れるものなの。真理愛ちゃんみたいにおとなしい子でもね。大人だけで暮らすのとは、『生活』そのものが変わるのよ。……変わらないといけないの」

 ──あなたも、これからはそのつもりでいなさい。親として。

 母はわざわざ付け加えることはしなかったが、言外のメッセ―ジはしっかり受け止めて肝に銘じよう。
 今更だが、実際に「今」できていなかったのだから。



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 あのあと。
 何食わぬ顔で父と共に部屋に戻り、仕切り直すかのように娘に大袈裟なほどの褒め言葉を掛けた。
「ぱぱ。ゆき、つめたい、……ぎゅ、ってした」
 はにかむような笑顔で話す真理愛に胸を撫で下ろし、とりあえずその場は収まった、と思っていた。
「……真理愛は雪なんて見たことないだろうから、楽しかったんだろうなぁ。いや、でも怖がったりしなかった?」
 娘を寝かしつけてリビングルームに戻った圭亮の言葉に母があっさり答える。
「ううん、雪自体は知ってたみたいよ。ずっと部屋の中だったからって別に動けなかったわけじゃないんだから、窓から雨も雪も見てたでしょ」
「ああ……」
 むしろ一人であの部屋にいたら、外を見るくらいしかすることはなかったのかもしれない。
 かつての恋人だった|今日子《きょうこ》が、別れたあとで圭亮には黙って産んで一人で育てていた娘。
 四歳九か月で今日子が薬を飲んで死ぬまで、真理愛は彼女と二人で古く狭いマンションの一室で暮らしていた。
 母親の最期の瞬間まで、同じ部屋でずっと。
 ほとんど外に出ることもなく、今日子が出掛けている間はたった一人残されるのが常態だったらしい。
 母親の死後、初めて会った父親である圭亮に引き取られて彼女はこの家に来た。
 最初は泣きも笑いもせず、言葉も出ない状態だった娘。
 しかし五歳の誕生日を迎えた去年のクリスマスから、真理愛は少しずつ言葉を発するようになって来ていたのだ。
「今までに見たことはあって『雪』だっていうのは知ってても、実際に触れたことはなかったのね。外に出ていざどういうものかわかったら、びっくりしたみたいに戸惑ってたわ」
「そっか。『白いひらひら降ってくるもの』が冷たいなんて、知らなかったら想像もつかないよな」
 咄嗟に「冷たい」という言葉は出なくても、驚きを表情や仕草で表したことだろう。
 ただでさえ大きな目を見開いて、祖父母の顔を仰ぎ見る真理愛の姿が目に浮かぶようだ。
「お父さんと二人でなるべく汚れてない雪だけ集めたのよ。塀や枝やらの上に積もったのとかね。それから作ったんだけど、湿った雪だからすぐ|融《と》けて手袋にも沁み込んじゃって。手が冷たいでしょうに嬉しそうでねぇ。無理にでもやめさせた方がいいのかってハラハラしたわ」
 孫娘との雪遊びを語る、母の弾んだ声。
「確かにちゃんと真ん丸じゃなくて|歪《いびつ》だし、玉に固めるのも弱いけど。『綺麗に作る』のが目的じゃないから、大人が手を入れ過ぎたら意味ないでしょ」
「真理愛はまだ手も小さいし、力の入れ具合もわかんないだろうしな。そういうのもこれからだんだん慣れて行くのか」
 手袋をはめた小さな手でぎこちなく雪玉を作る娘を想像し、微笑ましい気分になった。
 ……ほんの束の間。
「圭亮が帰るのをリビングで私たちと待ってる間も、一人で何度もキッチンの冷蔵庫の前まで行ってたのよ。きっと真理愛ちゃんは、初めて作った雪だるまをパパに見せたかったんだと思うわ」 
 静かに紡がれた母の台詞が心に突き刺さる。
 そうだ。
 雪だるまに限った話ではなく、娘がその手で『何かを作る』のは初めてなのではないか。
 それを自分は「こんなもの、食べ物と一緒に入れたら汚いだろ」としか感じなかった。
「パパに見せたかったのよ」
 帰宅して顔を合わせた際の娘の最初の言葉も、「ゆき」ではなく「ぱぱ」だった。
 ──真理愛の純粋な想いの籠った真っ白な雪のオブジェを、故意でないにしろ土足で踏み潰してしまったようで居たたまれない。
 生まれた日も、初めて立った、歩いた日も、話し出した瞬間も。
 圭亮は娘の人生の節目を、何一つこの|瞳《め》で見たことはなかった。
 彼女の存在自体が未知だったので当然だ。
 だからこそこの先の真理愛の『初めて』は、ひとつ残らずその場で確かめて喜びたいと思っていたのに。
 結局そんなものは単なる表向きの形ばかりだったと、己の浅さや薄さが露呈してしまった気がする。
「母さん。俺、俺は──」
「あなたに悪気がなかったのなんてお父さんも、もちろん私もわかってるから。実際には傷つけるようなこと言わなかったんだし、そこまで気にする必要ないわ」
 微かに震える声に圭亮の後悔を悟ったのか、母は穏やかに言い聞かせるように慰めてくれた。
「小さい子がいたら、どうしたって家は散らかるし汚れるものなの。真理愛ちゃんみたいにおとなしい子でもね。大人だけで暮らすのとは、『生活』そのものが変わるのよ。……変わらないといけないの」
 ──あなたも、これからはそのつもりでいなさい。親として。
 母はわざわざ付け加えることはしなかったが、言外のメッセ―ジはしっかり受け止めて肝に銘じよう。
 今更だが、実際に「今」できていなかったのだから。