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家鳴り

ー/ー



ーー軋む。音が鳴る。
 ギィ、ギィ、と音を立てて床板がしなり、戻る。その幾度とない繰り返し。暗く静まりかえった廊下にそれはよく響いた。
 ーー軋む。床が鳴く。
 その音は初めこそ微睡む意識の端に引っかかる程度であったが、時間が経つにつれ次第に大きく頻りに変わる。

 自室で眠りについていた文緒(フミオ)は耳障りな音に不快感を掻き立てられ魘されるまま目を覚ました。うるさいな、そう小さく漏らした苦言すら軋む音に霞んで消える。本当に煩い。一体何だというのだろう。億劫げに身じろいだ文緒は仕方なしに寝転んだまま右手を伸ばして、枕元に置いた眼鏡を手に取ろうとした。しかし彷徨わせた彼女の指先は畳の目をなぞるばかりでどうしてか目当ての物には行き当らない。どこか変なところに置いたりしただろうか。寝惚けた頭に疑問を浮かべながら緩慢に上体を起こす。その拍子、輪郭のぼやけた視界が何気なしに障子を捉えた。
 縁側に面した障子が月明かりを仄かに通して格子状の陰を作っている。そこに、何か、黒々とした大きな人影が差していた。

伽々里(カガリ)クン?」

 影に向かって同居人の名を呼ぶ。返事はない。

「どうしたの、こんな夜更けに。何かーー」

 文緒が再びそう声を掛けて、途端。
 障子越しに『それ』と目が合った。
 そんな気配に続けようとした言葉が喉に詰まる。
 あれほど煩かった家鳴りがいつの間にか止んでいることに気付いたのと、障子の影が動いたのはほぼ同時だった。閉じた障子の端に、影の一部が伸びていく。
 かり、と爪が木枠を掻いて削る音。
 そして。

 そこから先の記憶がない。


****


「寝不足ですか?」

 伽々里がそう声を掛けたのは文緒が本日九度目の欠伸を噛み殺した時だった。書物机の前に座って愛用の手帳を捲っていた文緒はその言葉に数度瞬きをして、茶盆を手に自分を見つめる仏頂面を見上げると困った顔で眉を下げながら口元を緩めた。

「うん、まぁ。少しね」
「活字馬鹿も程々にしてくださいよ。目を離した隙に本に埋もれて死なれたりしたら寝覚めが悪い」
「ははは、その節は大変申し訳なく……」

 じとりと目を細めた伽々里の皮肉に乾いた笑いしか出てこない。何せ文緒には高く積んだ本の山の傍らで食も忘れて読書に耽った挙げ句眠りこけ、雪崩れた本の下敷きになった前科があった。物音に気付いて部屋を覗きに来た伽々里が見つけて掘り起こしてくれなければ文字通り本に埋もれて死んでいたことだろう。広い家に一人と一妖怪暮らしという珍妙な生活を送る文緒にとって、あれはまさしく九死に一生の出来事だった。
 注がれる諌めるような視線がいたたまれなくなって文緒はその視線から目を逸らす。さりげなく机へ置かれた湯呑みと茶菓子が伽々里なりの気遣いだろうと察せられて余計に決まりが悪い。右往左往と所在なく視線を彷徨わせた後、文緒は観念したように手帳を閉じてコホンと苦し紛れな咳払いをした。

「いやね、これでも最近は一応自制して寝ているんだよ? ただほら、家鳴りがね……」
「家鳴り?」

 伽々里は怪訝な顔で文緒の言葉を遮った。狐のようにつり上がっていた目が瞬いて丸く見開かれる。思いの外大袈裟なその様子に文緒は首を傾げたものの、話題が逸れたのをこれ幸いと話を続けることを選んだ。

「ほら、どうもここ数晩家鳴りが酷いだろう? あれに何度も起こされてるんだよ。起きて暫くすると音が止むんだけど、丁度眠くなる頃にまた軋みが強くなって寝ようにもなかなか寝付けなくてね」

 「古い家だしどこが湿気で傷んでいるのかもね」とボヤいて文緒は指先で垂れた目尻を擦った。化粧で誤魔化しているものの、連日の寝不足のせいで目元には薄らと隈ができていた。

「お陰でずっと眠気が取れないのさ。昨日の夜なんて変な夢まで見ちゃったし、いやはや困ったもんだよ」

 文緒はそう言って肩を竦めた。夢、と口にした途端脳裏に浮かぶのは昨晩障子に浮かび上がったあの黒い影だ。
 あれは本当に夢だったのだろうか。黒い影が障子を開けようとしていたところまでは記憶しているが、その先は何故だろう、墨で塗りつぶしたように何一つ判然としない。気付いたときには文緒は元通り布団の中に横になっていて、黒い影は跡形もなく消え去っていた。夢と言い切ってしまうには妙に明瞭(リアル)で、けれど現とするには今ひとつ現実味のない出来事だった。
 ともあれ寝不足には違いない。文緒は伽々里の肩越しに壁掛けの振り子時計を仰ぎ見た。くすんだ金色の短針が三時を少しすぎた所を指している。幸い依頼されていた古書の翻訳作業は昨日の内に全て終わって受け渡しも済んでいるし、来客の予定も入っていない。床は後日大工に見てもらうとして今日は早めに店仕舞してしまってゆっくり休眠をとるのもいいかもしれない。そう頭の中で算段を付けて、我ながらいい考えだと彼女はひとり頷いた。

「……それはいつ頃からです?」

 僅かに眉を上げて伽々里が尋ねた。文緒はその問いかけに少し首を捻る。

「確か……一週間前くらいの、夜中に強い雨が降った日からかな。ほら、私が仕事で外に出ていた日だよ」

 答えを記憶から掘り起こしてそう返せば、「仕事、ですか」短く繰り返す伽々里の眉が不機嫌そうに寄った。

「聞いてませんけど」
「言ってなかったからねーーそんな怒らないでおくれよ。先代(あの人)の話題は嫌いだろうと思って言わなかったんだから」

 伽々里はますます険しい顔になる。不機嫌を隠そうともしない伽々里に文緒は「ほらね、」と苦笑を漏らした。

「だから言わなかったのに」
「……知らないほうが嫌なので」
「真面目だなぁ。マ、例に漏れず鑑定の方の仕事さ。ーーああでも、そういえば、」

 その仕事がまた、奇妙でなんとも不気味だったんだ。
 そう前置きして文緒は神妙な顔で話し始めた。


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ーー軋む。音が鳴る。
 ギィ、ギィ、と音を立てて床板がしなり、戻る。その幾度とない繰り返し。暗く静まりかえった廊下にそれはよく響いた。
 ーー軋む。床が鳴く。
 その音は初めこそ微睡む意識の端に引っかかる程度であったが、時間が経つにつれ次第に大きく頻りに変わる。
 自室で眠りについていた|文緒《フミオ》は耳障りな音に不快感を掻き立てられ魘されるまま目を覚ました。うるさいな、そう小さく漏らした苦言すら軋む音に霞んで消える。本当に煩い。一体何だというのだろう。億劫げに身じろいだ文緒は仕方なしに寝転んだまま右手を伸ばして、枕元に置いた眼鏡を手に取ろうとした。しかし彷徨わせた彼女の指先は畳の目をなぞるばかりでどうしてか目当ての物には行き当らない。どこか変なところに置いたりしただろうか。寝惚けた頭に疑問を浮かべながら緩慢に上体を起こす。その拍子、輪郭のぼやけた視界が何気なしに障子を捉えた。
 縁側に面した障子が月明かりを仄かに通して格子状の陰を作っている。そこに、何か、黒々とした大きな人影が差していた。
「|伽々里《カガリ》クン?」
 影に向かって同居人の名を呼ぶ。返事はない。
「どうしたの、こんな夜更けに。何かーー」
 文緒が再びそう声を掛けて、途端。
 障子越しに『それ』と目が合った。
 そんな気配に続けようとした言葉が喉に詰まる。
 あれほど煩かった家鳴りがいつの間にか止んでいることに気付いたのと、障子の影が動いたのはほぼ同時だった。閉じた障子の端に、影の一部が伸びていく。
 かり、と爪が木枠を掻いて削る音。
 そして。
 そこから先の記憶がない。
****
「寝不足ですか?」
 伽々里がそう声を掛けたのは文緒が本日九度目の欠伸を噛み殺した時だった。書物机の前に座って愛用の手帳を捲っていた文緒はその言葉に数度瞬きをして、茶盆を手に自分を見つめる仏頂面を見上げると困った顔で眉を下げながら口元を緩めた。
「うん、まぁ。少しね」
「活字馬鹿も程々にしてくださいよ。目を離した隙に本に埋もれて死なれたりしたら寝覚めが悪い」
「ははは、その節は大変申し訳なく……」
 じとりと目を細めた伽々里の皮肉に乾いた笑いしか出てこない。何せ文緒には高く積んだ本の山の傍らで食も忘れて読書に耽った挙げ句眠りこけ、雪崩れた本の下敷きになった前科があった。物音に気付いて部屋を覗きに来た伽々里が見つけて掘り起こしてくれなければ文字通り本に埋もれて死んでいたことだろう。広い家に一人と一妖怪暮らしという珍妙な生活を送る文緒にとって、あれはまさしく九死に一生の出来事だった。
 注がれる諌めるような視線がいたたまれなくなって文緒はその視線から目を逸らす。さりげなく机へ置かれた湯呑みと茶菓子が伽々里なりの気遣いだろうと察せられて余計に決まりが悪い。右往左往と所在なく視線を彷徨わせた後、文緒は観念したように手帳を閉じてコホンと苦し紛れな咳払いをした。
「いやね、これでも最近は一応自制して寝ているんだよ? ただほら、家鳴りがね……」
「家鳴り?」
 伽々里は怪訝な顔で文緒の言葉を遮った。狐のようにつり上がっていた目が瞬いて丸く見開かれる。思いの外大袈裟なその様子に文緒は首を傾げたものの、話題が逸れたのをこれ幸いと話を続けることを選んだ。
「ほら、どうもここ数晩家鳴りが酷いだろう? あれに何度も起こされてるんだよ。起きて暫くすると音が止むんだけど、丁度眠くなる頃にまた軋みが強くなって寝ようにもなかなか寝付けなくてね」
 「古い家だしどこが湿気で傷んでいるのかもね」とボヤいて文緒は指先で垂れた目尻を擦った。化粧で誤魔化しているものの、連日の寝不足のせいで目元には薄らと隈ができていた。
「お陰でずっと眠気が取れないのさ。昨日の夜なんて変な夢まで見ちゃったし、いやはや困ったもんだよ」
 文緒はそう言って肩を竦めた。夢、と口にした途端脳裏に浮かぶのは昨晩障子に浮かび上がったあの黒い影だ。
 あれは本当に夢だったのだろうか。黒い影が障子を開けようとしていたところまでは記憶しているが、その先は何故だろう、墨で塗りつぶしたように何一つ判然としない。気付いたときには文緒は元通り布団の中に横になっていて、黒い影は跡形もなく消え去っていた。夢と言い切ってしまうには妙に|明瞭《リアル》で、けれど現とするには今ひとつ現実味のない出来事だった。
 ともあれ寝不足には違いない。文緒は伽々里の肩越しに壁掛けの振り子時計を仰ぎ見た。くすんだ金色の短針が三時を少しすぎた所を指している。幸い依頼されていた古書の翻訳作業は昨日の内に全て終わって受け渡しも済んでいるし、来客の予定も入っていない。床は後日大工に見てもらうとして今日は早めに店仕舞してしまってゆっくり休眠をとるのもいいかもしれない。そう頭の中で算段を付けて、我ながらいい考えだと彼女はひとり頷いた。
「……それはいつ頃からです?」
 僅かに眉を上げて伽々里が尋ねた。文緒はその問いかけに少し首を捻る。
「確か……一週間前くらいの、夜中に強い雨が降った日からかな。ほら、私が仕事で外に出ていた日だよ」
 答えを記憶から掘り起こしてそう返せば、「仕事、ですか」短く繰り返す伽々里の眉が不機嫌そうに寄った。
「聞いてませんけど」
「言ってなかったからねーーそんな怒らないでおくれよ。|先代《あの人》の話題は嫌いだろうと思って言わなかったんだから」
 伽々里はますます険しい顔になる。不機嫌を隠そうともしない伽々里に文緒は「ほらね、」と苦笑を漏らした。
「だから言わなかったのに」
「……知らないほうが嫌なので」
「真面目だなぁ。マ、例に漏れず鑑定の方の仕事さ。ーーああでも、そういえば、」
 その仕事がまた、奇妙でなんとも不気味だったんだ。
 そう前置きして文緒は神妙な顔で話し始めた。