『私はね、執着されるのが嫌いなんだ。恋愛は刹那の燃え上がりが楽しい。まるで、花火みたいに』
にやにやと笑って言った校長に、その時の私は吐き気すら覚えた。
ならば……夫婦関係とは、見た目だけの滑稽なものとなってしまうではないか。
『もう飽きたし、正直どうでもいい』
フラッシュバックした、ずっと前に別れた元夫の言葉。
それは、苦しい私の胸をさらに圧迫した。
私は女だから、この男どもの感情が理解できないのだろうか?
私の思う正解の形と、相手の抱くそれとがあまりにも食い違う場合……一緒に生活するのは苦しみが伴う。
私は当時まだ幼かった一人息子を連れて、元夫と別れることを選んだ。
訪れはなんの前触れもなくやってきた。
滅多に鳴らされない呼び鈴に、私はやれやれと重い腰をあげた。
六畳一間にキッチンがついた、ワンDKのアパート。
一人息子が結婚して家を出たのをきっかけに、このアパートに越してきた。今から三年前のことだ。
私はドアを開ける前に、必ずドアスコープを覗くことにしている。
宅配業者ではない、こちらには一切用がない人物がやってくることがけっこうあるからだ。
ドアの前には、すらっとした背の高い女性が一人立っていた。
ロングコートを着ているから、女性が宅配業者ではないことはすぐにわかった。
私の気持ちが、面倒くさいから対応しないに切り替わる。
しかし今さら居留守を使おうにも、部屋の明かりがキッチンの窓から漏れているから、通用しない。
おそらく宗教の勧誘だろう。
家の近所に教会があるし、クリスマスも近い。
ポストに投函されていたクリスマスミサへの誘いは、毎年すぐに捨てていた。
私は信心深い人間ではないのだ。
「こんにちは、A高校の養護教諭です」
私はドアの向こうから響いてくる声に、どきりとした。
それは、私の予想が外れたからではない。
相手が口にしたA高校を、私が良く知っていたからだ。
A高校は、私が7月の半ばまで養護教諭として勤務していた学校だった。
私は戸惑い、身じろぎすらできずにいた。
この人は……どうして家がわかったのだろう? あの校長と教頭は、絶対に私と後任の先生を会わせたくないはずなのに。
そう思うのと同時に、思い出したくもない校長と教頭の笑顔が浮かんだ。
気持ち悪い……実に不愉快だ。あいつらも、突然やってきたこの先生の存在も。
「帰ってください!」
気がつくと、私は乱暴な言葉をドアに叩きつけていた。
「そうはいきません」
しばらく沈黙した後、ドアの向こうから淡々とした声が聞こえてくる。
感情的な私の言葉とは真逆のものだった。
「なぜですか……私には、あなたにお会いする用件などありません。業務の引き継ぎなら、保健室にある資料をご覧になれば済む話でしょう?」
私は少し冷静さを取り戻して言った。
「引き継ぎは、業務だけで良かったのでしょうか? 後任の者に伝えたいこと……他にもあったんじゃないですか?」
この先生……もしかしてあのことを知っている? いや、そんな馬鹿な……校長と教頭がいる限り、それは絶対にないはずだ……しかし、この口ぶり……
「私、東條先生にお聞きしたいことがあるんです。私の大切な生徒や保護者、教員の健康を守る為に」
大切な、ですって⁉
私はあの学校に十年勤めたのよ……たかだか数ヶ月しか勤めていないあなたより、愛着があるのよ!
本当は、辞めたくなかったのに!
怒涛の勢いで湧き上がってきた心の叫びに、私は困惑した。
今まで見て見ぬふりをしてきた……これは嫉妬と呼ばれる感情だ。
ドアの向こうに立っている、今のA高校の保健室の先生に対する嫉妬。
ああ、なんて見苦しいのだろう。
「私は、あの二人を止めます。絶対に」
それを聞いた瞬間、私の中の暗い感情が消し飛んだ。
あの二人を止めます。
思いがけない言葉だった。
それに、そう言うってことは、やっぱりこの先生はあの二人が悪事を働いていることを知っているんだ。
なぜ? いったいどうやって知ったの……それに、止めるってどうやって? 下手したら、あなたも私みたいに脅されてしまうのに……
いろんな感情と問が次々と湧いてきて、私の頭は混乱した。
私はゆっくりとドアチェーンを外して鍵を回し、扉を開く。
あの校長と教頭を止める……それはどういう意味なのか、そして本当にそれができるのか?
その問の答えを知りたい。
林優希。
じっと見つめた先の彼女は、そう名乗ってにこりと微笑んだのだった。